海神魚鱗宮 (わたつみのいろこのみや) 羽 生 榮
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永美ハルオ 画
作品のねらい 、
「鵜葺草葺不合命」という変わった名前の神がいる。このお方は日本神話中、日向三代の殿のお方で、神武天皇(神日本磐余彦)を産み給うただけの事蹟(?)しか書かれていない、謂わば「中継ぎのピッチャー」 のような方である。神の名というものは殆んど美称の塊なのだが、このお方には産屋の鵜葺草を葺き終わらないうちに生まれ給うたという大変直接的、人間的な名前が付いていて、それが何とも楽しい。
父はあの釣針を失くした山幸彦(彦火火出見命)、母は海神の娘(豊玉姫)で、それぞれエピソードには事欠かない方々であるのに、このお方は多分平凡な神だったのだろう。何か現代の世相にも通じる、例えば「自分の職分に邁進する父とエネルギーに満ち子離れの出来ない母に育てられて、いつまでも大人になり切れない男の子」に思えて、私なりの神話を書いてみたくなった。
能の「海人」や鏡花の「天守物語」が気分として底にあるが、古代の末子相続説が実は次男相続だったのではないかという鳥越憲三郎氏の仮説に、大きく影響され触発された。長男が祭祀者、次男が王を継承するというその仮説は、「倭人伝」が書く「持衰」の存在や、神祀官が太政官より上であった古代を思う時、大いにロマンをかき立てられ筋の骨子とした。
いにしえの薩南の人々は多分黒潮の海の道をやって来た人々だったに違いない。海との縁は限りなく深いわけであり、又「阿多」という地名が薩南では殆んど消えかゝっている事も、こんな神話を書く動機でもあった。国がまだ古代の県、その後の郡くらいの規模であった頃のお譚として、少し土臭く少し大らかな気分が出せていればうれしいと思う。
あらすじ
日向と呼ばれる土地がまだ南九州全域であった頃、西の海に臨む阿多地方に小さな国があった。その笠沙宮では東へ雄飛するための相談がなされていた。その国では代々長男が忌人(祭祀者)、次男が王となる慣わしがあり、久米人や阿多隼人がその二頭政治を支えていた。この国は山がちで地味うすく、それが為政者を悩ますところでもあったので、東の方によい土地があるという情報に「東征」の話が煮詰まっていた。
王(彦火火出見)は兄(火酢芹)を助けてよき為政者だったが、第二夫人の豊玉姫に去られた事が心の痛手となっていた。豊玉姫は海神の娘で、出産の苦しみのためについ本来の姿(鰐鮫)になってしまったのを夫に見られ、恥ずかしさのあまり海の国へ帰ってしまったのであった。産んだ子(鵜葺草葺不合)に自分の妹の玉依姫を乳人につけて残していったのだった。
その子もはや十五才となり、美しい若者に育ったが、ただいつまでも子供心を捨てられない、父王の後嗣ぎになる気もうすい子でもあった。今日も東征のための大事な話があるというのに魚釣りから戻らない。父王はその心許なさに心を痛める。乳人の玉依姫も勿論同様だったが、彼女はこの甥に密かに恋心を懐いているのだった。
長男の王子(稚彦)は忌人を嫌い、自分が王の後嗣ぎになりたいため弟(葺不合)を亡き者にしようとする。或る日葺不合は、その虎口を逃れて阿多川の潮渕に飛び込む。実はそこからは海への道があり、やがて海神魚鱗宮へ到着する。その宮に棲む海神の娘は齢をとらないため若くたおやかであった。葺不合は自分の母とも知らず心を奪われてしまう。豊玉姫は名のる事も出来ぬまま葺不合に迫られ、苦しまぎれに鰐鮫の姿となり息子を追い拂う。初恋に破れ上つ国に戻ってみると、たった一日の滞在だったのにもう三ヶ月が経っており、季節は夏から秋に移っていた。
夫にも今又息子にも愛想尽かしをされた豊玉姫は嘆き悲しむが、何とか息子の力になりたい、王のよき後嗣ぎにしたいと思い、自分の胸に隠された潮満珠・潮乾珠を刳り出し上つ国へ届けに行く。その珠はものの嵩を増やしたり減らしたり出来る宝珠で、東征には大いに役立ちそうな珠であった。玉依姫はその珠で自分の齢を減らして若く美しい姫となり、ついに葺不合の心を獲得する。
三ヶ月の間にもう東征の準備が整っており、葺不合は早速その宝珠で潮の嵩を上げて軍船を船出させる。その雄々しい姿を岩陰で密かに見送っている豊玉姫。それは自己犠牲によって子を生かす母の姿でもあった。
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参考文献
『神々と天皇の間』鳥越憲三郎
『古事記の世界』西郷信綱
『日本神話の考古学』森浩一
『隼人の研究』中村明蔵
『古事記』
『日本書紀』 |
海神魚鱗宮 (わたつみのいろこのみや) 羽 生 榮
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登場人物
(第一幕一場 阿多の笠沙宮)
彦火火出見(阿多国の王)
火酢芹(彦火の兄・祭祀者)
稚彦(彦火の長男・一の王子)
后(彦火の妻・稚彦の母)
玉依姫(二の王子の叔母・乳人)
赤猪子(一の王子の情人)
塩土老翁(阿多国の老臣)
大久米(久米人の長)と久米人たち
隼(阿多隼人の長)と阿多隼人たち
妃 侍女 婢たち
謎の美女(実は豊玉姫・彦火の元妻)
(二場 阿多の浜辺)
彦火火出見
鵜葺草葺不合(彦火の二の王子)
稚彦 玉依姫
大久米 隼と隼人たち
八尋鰐
(第二幕一場 海神魚鱗宮)
海神(魚鱗宮の主)
豊玉姫(海神の娘・葺不合の母)
葺不合
魚たち(鯛女・口細・飛魚・平目・鮫五郎ほか)
侍女たち
(二場 笠沙宮)
葺不合 玉依姫 豊玉姫(玉依の姉)
稚彦 赤猪子 幼女(実は玉依姫)
久米人たち 隼人たち 侍女たち
(三場 阿多が浜)
葺不合 玉依姫
豊玉姫 稚彦 火酢芹
久米人たち 隼人たち
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第一幕一場 阿多の笠沙宮
南九州笠沙岬にほど近き笠沙宮。正面に白木高足高欄の宮殿。中央五段あり。簡素
なる御簾下がる。下手奥へ宮殿続き、前面は広庭。上手奥より斜めに阿多川の流れ
ありて、宮殿際は青渕となり、岩場にて水際へ降り得る気配。川上は重畳たる山並
み。倭が未だ「弥生」と呼ばれし頃の夏の昼下がり。川の音低く響く。
的形の阿多が磯辺を漕ぐ舟や 波にいざよう真昼間の 照葉も繁き笠沙の宮
(幕明くと、板付にて古代の短甲をつけ、槍・弓・鉾などを持ちし武人十人ほど、
三三五五広庭に坐し語り合う。皆目尻に青き入墨思い思いの形に入れている)
久米人一 今日た何事か大層な話があるごつ聞きしが、手前がたは存じおるか。
〃 二 いや、おいどんは一向に。
〃 三・四 われらも存じない、存じない。
〃 一 大久米殿、お手前はご存じか。
大久米 まあ待て待て、阿多衆が来ての上じや。
久米人一 と言わるるとは、大久米殿はご存じと見ゆる。お話しあれ、お話あれ。
大久米 いや、わしも上のご命令じゃによって、重立ちし者共を集めたまで。一向に存じない。
久米人二・三 それはあるまいがのう。
ト思い思いに捨てぜりふあるところへ、鳴物にぎやかに変わり、向こうより
異種の短甲つけし武人これも十人ほど、口元・頬に別種の赤き入墨入れ、楯や
武器を持ち連れ立って来る。肩に薑(生姜)の大束を担ぎし者、また大袋を
背負いし者立ちまじる。久米人衆これを迎えて、
大久米 ヤアヤア、阿多の隼殿、遅うござったな。スワ謀叛かと思い申したぞ。
(久米人衆ドッと笑う)
隼 (七三で止まり気色ばんで)ヤア、唾吐いて言ったかヤイ。雑言用捨はぜぬぞ。
ト大げさに腰の刀に手を掛ける。
大久米 (止める手付で)いやこれはご用捨、ご用捨。
隼 (フンといって機嫌を直し)オーイ水仕のおなご、おなご殿。
ト言いつつ本舞台へかかる。婢二人下手より走り出で、
婦一 ハイハイ、何事でござりましょう。
隼 (大束を婢一に渡して)ホレ、薑じゃ、今抜いて来たばかりの泥付じや。
婢 一 マアマア、はやこれほどに太うなりましたか。
隼 こっちは細螺ぞ。朝まだきに獲って来た、ホーレ。
ト大袋を婢二に渡す。婢たちよろしく捨てぜりふあって下手へ。
隼 (むくれ顔に)皆にうまかもん喰わそうと、遅うなったんじゃ。
大久米 イヤア、済まぬ済まぬ。久方ぶりの珍品、宴の酒が楽しみじゃ。
(一同破顔大笑、ガヤガヤやるところへ警蹕の声「オーシ、オシ」、鳴物荘重
なものに変わる)
皆 お出ましじゃ、お出ましじゃ。
ト皆広庭に並び宮殿に向かって頭を伏せる。阿多隼人等は口々に吠声を挙げ、
楯を高床下に立て並べる。ズラリと隼人の渦巻き絵柄が並ぶ。
御簾静かに上がり、中央に火酢芹(緩衣を着、着冠す。顔は冠の玉簾で見えず)
着座し、その左に彦火火出見王(下げ角髪を結い武人姿)控える。二人の左右に
一の王子の稚彦、后、妃、侍女たち座しいる。一人の老翁(塩土老翁)進み出で、
塩 土 皆の者集まりおるや、面を上げい。今日た上より者共にお話あり。畏って聞け。
皆 ハハーツ。
彦 火 皆の者、この国の行く末につき、今暁、御祖の大神より御託宣あり。その宣言、皆
に伝えたく集まってもろうた。
(皆ガヤガヤとなる)
彦 火 思い起こせば上祖の命、久米の子らを率き連れて、日向の襲の高千穂の峯に天降り
ましてより、はや幾年ぞ。「高千穂は朝日の直刺す国、夕日の日照る国いと佳き処」
と申されしが、哀しや彼の地は膂宍の空国。一度大雨あらば牛の背を水流るる如く
家流れ畑荒れて、粟黍も箕に残るは一握なり。御祖命佳き国を求め彷徨い、荒ぶる
者共を言向け和し伏わしめ、やがてこの阿多に根を下さる。阿多は我が母の地にて
佳き国なり。されどこの地も畑は少なし。今日一姫、明日二太郎と増ゆる端から飢
えが攻め来る。兄君へ今暁大神より「東へ」との御託宣あり。又磯仕切る塩土も潮
の霊に聞くに、「竺紫には岡田宮、宇沙に足一騰宮、阿岐には多祈理宮、吉備に高
島宮どもあれど、なお東には青山四に周れる未だ手つかざる美地あり」と。我が
輩・族こぞりて東へ移らばや。この国を捨つるにあらず、打って出でるのじゃ。
(皆大騒ぎとなる)
塩 土 (手で制して)皆々静かにせい。わしは聞きつるぞよ。東の「山戸」には大小の沼
ありて、青垣に四方を囲まれ物成り豊かに、鹿は草を食み、蜻蛉の臀沾せる地なり
と。我れ齢波寄すといえども、一目その「まほろば」をこそ見て死にたし。
(皆又騒ぐ)
稚 彦 してどのように打って出でるのでござりまするか。
彦 火 岬の北、阿多が浜に大き軍船を造り、兵器・兵粮積みて、我と思わん兵共、又その
輩族と打ち乗り、黒き潮に乗りかけ北を目指す。まず手始めは竺紫の岡田の門じゃ。
伏わざる敵は討ち、伏いし後は次なる地に進み行かん。竺紫の北をめぐりて東へと
進むのじゃ。
(皆どよめく)
稚 彦 父上、このような大事な折に、葺不合が見えませぬが。
后 ほんにそうじゃ。弟の王子は何処へ行きしか。大事なお話ありと言い置きたるに。
ほんに困つたお子じゃ。
(皆ヒソヒソ囁き合う)
隼 さきほど磯で漁してでごわした。
后 なんと。誰ぞ呼んで参れ。玉依という乳人のあるに何とした事じゃ。
(后、下座の玉依姫を睨む)
玉 依 申し訳もござりませぬ。
(隼人一人、下手へ走り行く)
稚 彦 輩族こぞりて東へ向かう事、佳き事と存じまする。じゃがわしは父君のごとき武人
として東へ行きとう存じまする。伯父君の後嗣ぎはいやにござりまする。
彦 火 今更なにを言う、我侭者め。これは規り事と知りおろうが。
稚 彦 弟はゆるゆるとしておるゆえ、我より忌人に向いておりまする。弟にこそ伯父君の
嗣をとらせて下さりませ。
彦 火 ならぬならぬ。これは上祖よりの法なるぞ。「兄の王子は忌人に、弟の王子は王と
なる」と。今この国も兄君のおわすればこそ。兄君おわさねば我が兵共の命運尽き
し事幾度ぞ。(兄に向かい)日に幾度も禊なされ、御琴弾き坐して天大神にお祈り
ある兄君様。今はかく清き御衣召さるるが、一度神のお憑りなされてよりは、お身
も拭わず御髪も梳らずして戦の庭に出でまし、海路なれば船の舳先にお坐りなされ、
海の道の恙なきを祈らるる。我は兄君の手なり足なり。武器を取り、進む道を伐り
開くのみ。兄君あってのこの国なのじゃ。(兄に一礼する。立ち上がって階の上ま
で来て)皆、倶に祈らん。大神に祈らば又よき道も開けよう。
(皆「オウ」と言つてワラワラと階を上る。御簾静かに下がる。大勢の祈りの声。
下手より婢一人、箕に薑を入れて出で来たり、水で洗いしものを干す仕種。その
時上手でザブと水の音。婢ふり返り、あわてて下手高床の陰へ隠れ、上手を窺う。
岩場より一人の美しき女上り来、庭の端で緩衣の袖や裾を絞る仕種。足音を忍ば
せて祈り声のする宮殿に近付き見上げ窺う。床下の婢驚く。そこへ向こうより若
き村娘、隼人の一人に制せられながら出て来る。鳴物にぎやかに)
赤猪子 (大声で)とにかく一目み子さまに会わせて下され。待てど暮らせど御殿よりのお
呼びがない。もう待たれん、そこのきゃれ。
隼人五 御殿へ近付いてはならん。ならんと言うに・・・・。
ト制すれど、二人本舞台へ。その騒ぎに驚いて、美しき女岩場へ走り水に飛び込
む。大きな水音。婢上手へ追うが、赤猪子の出現にも驚き、
婢 一 アア、赤猪子じゃなかと。
赤猪子 フン、呼び捨てとはウザッタイ。一のみ子のお手付きの娘ぞ、慎みゃ。
婢 一 エエ、この蓮根堀りの泥娘がなァ。
ト不審顔。
赤猪子 グダグダ言つちょらんと、早ようお呼びしてこんかい。
(婢は箕を抱え、あわてて下手へ入る。御簾上がり、「ナンダナンダ」と皆覗く。
稚彦あわてて降りて来)
稚 彦 騒ぐな騒ぐな。
赤猪子 アレ、み子さまではなかと。会いたかつたァ。(稚彦にとりつく)
隼人達 (上より口々に)ヒヤヒヤヒヤ。
″一 赤猪子よ、うまか事やりもしたな。
〃二 み子さァも蓮根掘らるツとは知らなんだ。ヒヤヒヤ。
(稚彦、赤猪子を持て余しつつ、二人下手へ入る)
大久米 ヤア、水が入ったところで宴としようぞ。
久米人・隼人達 それがよか、それがよか。
(大久米、手を打って報らせると、鳴物一入にぎやかになり、婢たち下手より酒や
肴を持って現われる。免田式土器の壷など、酒を入れし風情にて運ばれ行く)
婢 一 御酒じゃ御酒じゃ。甕の腹満たし列べん。
〃 二 サテサテお肴これに。野のものは薑に甘菜に辛菜。
〃 三 青海のものは、鰭の広物、鰭の狭物。
〃 四 若布に荒布、お肴これに。
〃 五 さて細螺も煮上がったり。
皆 待ちかねた待ちかねた。
(階上は酒宴となり、献酬よろしくあって唄など出はじめる)
みつみつし 久米の子らが 頭椎い石椎い持ち 撃ちてし止まむ
的形の 阿多の隼人が 垣下に植えし薑口ひびく 我は忘れじ 撃ちてし止まむ
みつみつし 久米も阿多らも 大石に這い廻ろう細螺のい這い廻り撃ちてし止まむ
(手拍子などある)
皆 額には箭は立つとも、背は箭は立たじ。ウォーウ。
(次第にウォークライとなり、リフレインす)
彦 火 (階を一、二段下り)葺不合はいまだ見えぬか。心許なや。
ト心配顔で遠くを見る。
(暗転) 最上段へ
二場 阿多の浜辺
上手より下手へ湾入した浜辺。下手寄りに少し岩場あり。遠景に宮殿見え、波の
音高く又低く響く。空に赤味ありて、同じ日の夕暮れ。(向こうより彦火火出見、
酒に酔いし風情にて出て来る。大久米、付き添いて出ずる)

大久米 ホレホレ、危のうござりまする。今日た余程御酒が過ぎましたな。ホレ危ない
危ない。
彦 火 そうじゃ、過ぎた過ぎた。過ぎたがどうした。酔ったが悪いか。エエ、退りおろう。
(振り拂ってフラフラと本舞台へ来る)
大久米 (なおも支えようとしながら)これはどうもからみ酒じゃ、悪い酒じゃて。したが
お上、又この浜へ参らるっとは・・・・。
彦 火 それがどうした、悪いかヤイ。悪くとも淋しきものは・・・・、淋しきものは詮もなや。
大久米 ようござる、ようござる。たんとこの海原に思いの丈を流さるるがようござる。
彦 火 (大久米を振り切る拍子に浜へ崩れて)〝沖つ島、鴨著く島に・・・・、我が率寝し妹
は忘れじ・・・・、世のことごとに・・・・″
大久米 (女の科をつくり)〝赤玉は緒さへ光れど、白玉の君が装し、貴くありけり″
彦 火 やめてくれ。その面でやられては、我が思いまで萎えてしまう。ハハハ。
大久米 マアごゆるりと、心腹に落つるまでここにおられませ。手前はあの岩陰に控えおり
ますほどに。(岩場の向こうへ入る)
彦 火 許せ許せ。(と項垂るるが、ややあって)豊玉よ、なぜに去った、何ゆえわしを捨
てしぞや。
(波の音のみ響く)
〃 伺見がそれほど悪いか。のう、答えて給れ。(項垂れる)口あけて腸見せ合うのも
夫婦なれば許さりょう。わしは構いはせなんだに。お前に愛想尽かしはせなんだに。
(砂に手を付く。その時、上手磯伝いに、玉依姫現われ辺りを探す仕種)
玉 依 お姉様お姉様、お出でなのでござりましょう?一目お会い申したく。のうお姉様、
せめて一目・・・・。
ト渚を探しながら中央へ来る。彦火火出見を見て驚き、
玉 依 マア、お義兄様、これにおわしまするか。(助け起こす)
彦 火 依姫か。何しにこれへ・・・・。
玉 依 (砂に坐わり)お義兄様、実はお端下の者が、お姉様らしきお方を見たと申すので
ござりまする。昼下がり御殿脇の岩場より上って参られしと。
彦 火 エエ。
玉 依 御殿を窺っておいでとの由にござりまする。定めし吾子様の御事が心配の余り・・・・。
彦 火 どうして岩場からなのじゃ。
玉 依 人は知りますまいが、あの渕は海神宮へ続くと言う潮渕にござりまする。底つ国
よりあの渕へ参られたに違いありますまい。(キョロキョロす)
彦 火 葺不合を心配してか。わしへの思いはないのかヤイ。
玉 依 い、いえ無論の事、お義兄様の御事も御心配の筈にござりまする。又この妹の乳人
振りも憂き事に思し召して・・・・。
彦 火 依姫よ、己が身を責めるでない。おことはよくやっておるではないか。姉ももはや
そこいらにはおるまいよ。我が子・葺不合は生まれついての呑気者。痴れ者ではな
さそうじゃが、未だ山やら川やら海やらを遊び廻って飽くことなしじゃ。
玉 依 お言葉なれど、はや十五才にもなられまするに・・・・。
彦 火 どうすればようござる。のう、乳人殿。
玉 依 お意地悪なお義兄様。(恨めしそうに見て)わらわは姉君のお去りなさるる折、そ
の嬰子様を育ねるお役目をお受けいたしし者。何としても義兄君のお後を嗣がるる
方に治養しまつるようにと、言い付けられし者にござりまする。その折わらわは十
三才、己が拙なさに涙のこぼれぬ日はありませなんだ。御親の宮へも帰る事なく、
一心に勤め参ったのでござりまする。(目を拭う)
彦 火 淋しくはないのか。何ゆえ一度も帰らぬのじゃ。
玉 依 我が志果たさぬうちは・・・・。
彦 火 志とは。
玉 依 我が思う心叶うまでは・・・・。
彦 火 思う心とは。
玉 依 (うつむきて)申せませぬ。
彦 火 そもじを見ておると、姉の面影が重なるぞ。近頃めっきり姉に生き写しじゃ。
(急に玉依姫を引き寄せ)わしの元に参らぬか。
ト迫る。
玉 依 (驚き拒んで)義兄上様、ご無体にござりまする。
彦 火 (なお迫りて)なんの、姉と妹を婚ぐ事、天つ罪・国つ罪にも当たらぬぞよ。
(その場へ倒さんとする)
玉 依 (拒みしも心をきめ)ようござりまする。御心なれば奸けられませ。したが姉君を
お慕いの余りにとは情けなや。わらわは姉君ではない。たとい身は差し上げましょ
うとも、我が心は上げられぬ。(泣く)我が心は、我が心は、葺不合様のもの。
よし身は父と子に交る罪となろうとも、思うお方は一人のみ。サア、奸けられませ、
心ゆくまで奸けられませ。(目を閉じ、力を抜く)
彦 火 (ジッと見つめ、突き放して)許せ許せ、わしが悪かった。それ程までに吾子を思
いおるとは。
玉 依 (ワッと泣き伏し)ほんに左様にござりまする。が、これ程のわらわの思い、み子
さまは一向に、一向に御存じなく、叔母よ叔母よと申さるる。それが悲しうてなり
ませぬ。
彦 火 (肩を抱き)おお、そうかそうか。叔母では話が進まぬのう。
玉 依 義兄上様ッ。(思わず義兄の膝に縋り)み子さまを一心にお育て申しおりまする
うち、日一日と美しきお姿にならるるを見るにつけ、乳母心が恋心と変わりゆく
己が身の怖ろしさ。なに心なく肩にお手を載せられましても、飛び上がるほど驚
いて・・・・。端正しきお顔を拝見するも怖ろしく、じゃがいつの間にか目の隅で見
つめてしまう・・・・。お笑い下さりませ、このような年嵩女の恋心を・・・・。
彦 火 なんの笑う事があろうか。もともと姉は妹を、我が子の妻にと思い定め去つたの
じゃ。あれが、あれが未だ嬰児なのじゃよ。
玉 依 この心の苦しさに、いっそ帰ってと思う事もござりまする。じゃがあのお方を拝見
すると、もう足が竦んで帰られぬのでござりまする。
彦 火 (向こうを見て)オヤ、人が来るようじゃ。このような所を見られては・・・。
(大声で) 大久米、大久米。
大久米 ハハッ。(岩場より走り出で、ひざまづく)
(大久米の出現に玉依姫はハッと驚き、袖で顔を隠す)
彦 火 この人をお送り申せ。わしは今しばし酔いを醒まそうよ。
大久米 畏りました。(姫を連れて下手へ入る)
(向こうより、葺不合来る。袖や衣についたキラキラするものに見とれながら歌い
舞いつつやって来る。釣竿を持ち、腰に魚籠を下げて)
葺不合 月の光か、名残りの星か、それとも春の花びらか。
キラキラキラ、キラキラキラ。
(薄暮の中で光る衣)
〃 (七三で止まり)おお、何と美しいこの衣、夜光の水の美しさよ。奇しの光よ。ハハ
ハ・・・・。
彦 火 葺不合か。
葺不合 (父を目にとめて)ヤア、父上様、そこにいらせられまするか。見て下され、この
水の美レさを・・・・。(一廻りして楽しそうに本舞台へ)
彦 火 それは蟲なのじゃよ。この暖かな海に棲む水の蟲、夜光蟲さ。しておぬしは今まで
何しておったのじゃ。
葺不合 ひねもす刳り舟に乗り、魚釣しておりました。夜になるとこの頃は、ずっとこれが
光りまする。先夜も大層光った晩に、舟端に大魚が現われ、その背鰭がツイーッ、
ツイーッと光る水を切って行く。あまりの面白さに釣るを忘れついて参りますると、
その魚は暗い沖へずんずん行くのでござりまするよ。何か私を誘うかに思えて、怖
うなって戻りました。
彦 火 何とたわいもない事よ。
葺不合 それにしても父上はよくここへお出でじゃが、ここには何ぞござりまするのか。
(砂に並び胡坐をかく)
彦 火 (ややあって)ここはのう、十五年の昔、そもじの母が産屋を建てし渚でのう。
鵜葺草で葺いた産屋じゃった。母は産屋を葺き了えぬうち産気づき、苦しみのた
うち廻り・・・・。わしは心配でのう、ついその産屋を覗き見たのじゃ。葺きかけの
その上に苦しみで毀たれし産屋の内をな・・・・。じゃが母はそれを恥じ、そ
もじを生み置いて去ったのじゃ。妹の玉依姫を乳人にして。
これまで育てしかの人を労ってやるがよい。
葺不合 はじめてお聞きするお話じゃ。我が名の由来が聞けました。叔母上は目開けし時よ
りの母上、大事にはいたしおりまするが、何せ口喧しく、つい口答えの一つも申し
てしまい・・・。
彦 火 マアよいわ。じゃがもう少し大人になってくれねばのう。わしも母なき子ゆえ甘や
かしてしもうたが、ひねもす遊び暮らすそもじを見ると、肝が煎れる。東へ行く事
存じおろう。お前がしっかとしてくれねば・・・・。
葺不合 やはり東へ行くのはまことにござりまするか。わしは、ここがよい。ここに残るは
なりませぬか。
彦 火 何を言う、弁ものう。
葺不合 この暖かな海に浸っておりますると、何か褥にくるまるような、母の懐に抱かれる
ような安き心持ちなのでございまする。
彦 火 母の懐か。呑気者よのう。(向こうを見て)オヤ、又誰か来たようじゃ。わしは行
く事にしよう。(葺不合を一人残し、下手へ入る)
稚 彦 (向こうより大声で) オーイ、そこにいるのは葺不合か。
葺不合 ヤア、兄上か。葺でござるよ。なにか御用で。
稚 彦 間伸びした野郎よ。(七三まで来てせせら笑い)皆で東へ行かんとするに、心も
となき奴よ。
葺不合 わたしは東へなぞ行きとうない。父上へも先刻申し上げたところじゃ。
稚 彦 いつまでも嬰児のように呑気な奴。めでたき奴よ。変な女に捉って、お父上も半端
な子をお産みなされたものじゃ。(本舞台へ来る)
葺不合 我が母を知っていやるのか。
稚 彦 おれが母上が言わるるには、はなはだ醜女じゃったそうな。それを恥じて逃げ出し
たと。
葺不合 イヤ、我が叔母上が言わるるには、世にも稀な美女なりしと。
稚 彦 それこそ身内びいきと言うものさ。
葺不合 そっちこそ、前妻が後妻を悪しう言うは知れてある。
稚 彦 へーエ、いつに似ぬわけ知り顔の言い草よ。いちいち逆うこんな奴に国を任すは気
に入らぬ。おれが父上の後を嗣ぐ。忌人はお前がやれ。
葺不合 じゃが父上はお許しになるまいよ。祖法とやらを喧ましくお言いじゃもの。
稚 彦 エエイ、いつそお前を殺し・・・・。
トやにはに腰の剣を抜く。
葺不合 オヤ、わしを殺す気でござりまするか。(逃げ腰なれど小さき山刀を抜く)わしを
殺すは無駄と言うもの。まだ弟たちがおりますれば。ハハハ・・・・。(二三太刀打ち
合い)兄は次男になれまいものを。それとも弟たちも皆殺しのおつもりか。
稚 彦 おうさ、皆殺しだ。(刃と刃を合わせ睨み合う)
(そこへバタバタにて、向こうより大久米と隼が隼人を十人程ひき連れ出ずる。
大久米と隼が二人を羽がい締めにして引き離す。隼人たち、間に楯を立て並べる)
大久米 武器採るはご法度じゃ。
ト刀を取り上げる。彦火火出見も下手より現われ、岩場に上がり、
彦 火 そうじゃ。二人よ、肉と肉とで戦うがよい。
(楯はサッと取り除かれ、二人は素手で組み合う。砂の上へ倒れ、ゴロゴロと転がる)
彦 火 二人よ、東へ行く日の為に体を鍛えておけ。
(隼人たち、ワイワイ言いながら王子たちの組み合いを見ている。その時上手の海
の上に、大き魚の尾鰭、夕焼けの空に高く上がり水面を打つ。水音大きく)
隼人一 ヤア鯨か。
隼人二 鯨じゃ鯨じゃ。
隼 イヤ鰐鮫じゃ。
大久米 八尋鰐じゃ。
(隼人たち騒ぎつつ、とっさに総ての楯で大きな尾鰭を作り上げ、渦巻き絵の呪力
で悪魔を打ち拂わんと楯を震わせる。呪声を上げながら。大魚二三度跳ねしが何
処へか去る)
彦 火 (思わず渚へ走り出で) 姫・・・か。
(人々渚へ寄り、沖を指さし一しきり騒ぐうち)
(幕) 最上段へ
第二幕一場 海神魚鱗宮
舞台中央に海神の宮殿。透明なる鱗にて葺きし屋根瓦少し見ゆ。軒先は中国風に
反り上がり、柱・欄干は青丹にてよろしく彩られ、前面に三段の赤き階あり。
前庭の下手に井泉ありて、傍に桂の木。枝葉井の上に茂る。海藻の叢、処々にあ
り。辺りには時に波の反映ありて、明るき海底のさまを表す。前幕よりあまり日
も経ぬ頃。
(幕明くと、広間中央奥の椅子に父の海神坐し、その左に娘・豊玉姫、カウチ風の
椅子に倚りいる。左右には侍女や、頭上に魚をつけたる者たち居並ぶ。下手に几
帳あり、胡弓を弾ずる魚の女、静かな節を奏でいる)
父 王 娘よ、近頃そちはしばしば上つ国を覗いておるようなが、如何いたしたのじゃ。先
夜わしもヒトデと化生り渚を漂うて見たが、あの国もいよいよ戦が近いようじゃ。
久米の子ら・隼人らが大勢気勢を挙げておったぞ。
飛 魚 「いよいよトウセイ」とか申しておりましたが、何の事にござりまするか。
豊 玉 飛魚や、お前も覗いて見たのかい。
飛 魚 へエ、ちょっと波切りをいたしまして。(頭を掻く)
鯛 女 わたくしは依姫様が心配で心配で。
父 王 まああの娘も気丈な奴、心配はいるまいて。
豊 玉 妹はさて置き、我が子・葺不合が何とも歯痒い。優しさも程が過ぎるぞ。
父 王 そもじが辛棒強くあらば、こんな悩みもなかりしを・・・・。
豊 玉 何とおっしゃりまする。十五年前のわらわの仕方を、今だにお責めなさるるのか、
父上様。
父 王 おうよ、そもじさえ産みの苦しみを今一刻耐えたれば・・・・。堪え精のなき事よ。
豊 玉 ヘン、子を産みし事なきお方が、お偉そうに。あの苦しみはほんに辛きもの。産屋
も葺かぬそのうちに、激しき痛みの刺し込みて、隙間洩る青空のチラチラ見えしも
霞み目となり、アア、今もあの苦しみが思い出されて・・・・。(顔を覆う)
父 王 そんなものか。男にはトンと分らぬ。じゃが堪え精なく正体顕し鰐鮫となりおつて。
イヤハヤ、それを又夫に覗らるるとは・・・・。
豊 玉 火火出見さまの恨めしさよ。女の産屋を覗くとは・・・・。
父 主 背鰭押っ立て尾鰭地を打ち、のたうち廻るでは、百年の恋も醒めるわ。
豊 玉 もう勘弁なされて下さりませ。恥ずかしさに一目散、この国へ帰って来てしまいま
した。(泣く。皆も貰い泣く)
父 王 もうよいもうよい。泣くでない、泣くでない。その嬰児を妹の乳人がよく育ててお
るぞ。なかなか麗しき我が孫じゃ。
豊 玉 (乗り出して)父上もそのように思われまするか。私も密かに清げなみ子になられ
たと・・・・。(うれしそうに言う)
平 目 じゃがどうも一のみ子よりお気弱そう。
豊 玉 オヤ平目、お前も覗いたか。
平 目 ハイ、幸い目が上に二つありまするゆえ浅瀬まで。
父 王 全くここの者共は、物見高き奴ばかりじゃ。ハハハ・・・・。さてと、わしはこれより
巡幸じゃ。皆がわしの行くのを待ちおるからの。
豊 玉 此度はいずれへ参られまする。
父 王 中つ国の東の海の底、深い深い溝の内、色無し魚・目無し魚が淋しう棲みおるとこ
ろじゃ。海雪の霏々と降りしきる、その底に暮らす者たちが待っている。髭を触り、
鰭を撫で、触手を揉んでやるとのう、皆よがり声をあげおるのじゃ。フフフ・・・・。
鯛 女 父王様のおられぬここは、お淋しの宮。又当分お留守なのでござりましょうね。
サア 皆、その辺りまでお送りいたしましょう。
皆 さうしましょう、さうしましょう。
(皆揃って父王のあとに従い階を下りる。豊玉姫、階の下まで送り行き)
豊 玉 私はここでお別れ申しまする。ご機嫌ようお運びなされませ。
父 王 アア、行ってくるぞ。
ト娘に別れを告げ、下手へ入る。皆も一斉に送って入る。
豊 玉 (階を上りながら)全く父王様は皆の人気者じゃ。わらわの周囲が人少なになるほ
ど従いて行つてしもうたわい。(階上より下手を見て)ヤレヤレ面白うない。
口細よ、琴でも弾いてくりゃれ。
口 細 ハイ。(琴を弾きはじめる)
(豊玉姫、椅子に倚り所在なげに美しき団扇を使う。下手より二人の侍女、井のほ
とりまで来る。一人は壷を抱えいる)
侍女一 ほんに父王様は楽しきお方よのう。我々にまでちょっと脇やら背やらをお触りなさ
れて、優しきお言葉、面白き艶話などなさるるのだもの。皆がすっかり虜になつて・・・
・。鯛女なぞは鱗の中にまでお指を入れられ、クックッ、コロコロうれしげにする
のですよ。ほんに楽しきお方よのう。
侍女二 父王様は触り上手のお方ですわ。お別れするのは淋しいこと。
侍女二 ほんにのう。お戻りが待たるる。
ト壷を井の縁に置き、釣瓶で水を汲もうとして、ハッと水を覗く。次に上の木
を見上げ、驚いてもう一人に指し教える。二人はあわてて階の下へ至 り、
侍女一 姫様姫様、大変にござりまする、人が、人が、木に棲んでおりまする。
豊 玉 なんじゃ、騒々しい。
侍女二 若いお人が斎桂の木の上に。
侍女一 女かしら男かしら、とにかく美しきお方が・・・・
(豊玉姫、階を下り井のところまで来て上を見上げ)
豊 玉 マア、あなたさまは・・・・。早うあの、あの、梯を持つて来るのじゃ。
(侍女たち下手へ急ぎ入る。若き男、木を伝い下り、ポンと下へ跳び下りて)
葺不合 ここは何処じゃ、竜の宮か。
豊 玉 ここは鱗の宮と申す海神の棲むところにござりまする。ようこそ、み子さま、
鵜葺草葺不合さま。(手を取りて誘う)
葺不合 オヤ、私の名をご存知じゃ。してあなたは・・・・。
豊 玉 海神の娘にござりまする。
葺不合 何と、橘の花のごときお方。(ヒシと見つめて)透き通るようじゃ。(両手を取る)
豊 玉 マア、そんなにお見つめになってはいや。(琴の音の響く階上へ誘う)
葺不合 私の中からあなたの方へ、憧れ出ずるものがある。何であろう、この出でて行くも
のは。
豊 玉 さあ私には・・・・。
葺不合 初めてのこの気持ち。出でて行って戻らぬに心うれしい・・・。
豊 玉 さあ。
葺不合 あなたはずっとこの宮に棲んでおらるるのか。
豊 玉 左様にござりまする。ここでは齢というものを取りませぬ。一番ありたき姿のまま
生きられるのでござりまする。してみ子さまは、どのようにしてここへ参られたのか。
葺不合 アア思い出すのも厭わしい。(手で顔を覆い)兄君が又私を亡き者にしようとなさ
れ、私は宮下の渕へ飛び込み逃れたのじゃ。ふと見ると、川の中に道がある。下へ
下へと続く道じゃ。そこを行くうち海へ出て、あの桂の木の上に着いたのじゃ。
(指さす)
豊 玉 兄上はそれ程にあなた様を憎んでおいでか。
葺不合 アア、イヤ、もういいのだ。(楽しそうに)こんな場所があろうとは。日の光がこ
こまで届いて明るいな。水面のキラキラがここにも映えて美しい。存外浅い場所な
のじゃな、ここは。
ト欄干から上を見上げたり、階を下りたり上ったりしてはしゃぐ。そんな我が子
を万感をこめて見つめる豊玉姫。
豊 玉 (姫もはしゃいで)サア今日は精一杯おもてなしをしなくては。中つ国のみ子さま
のお出でじゃもの。皆の者頼みましたよ。
皆 ハハーッ。
(豊玉姫と葺不合、手を取り合いてカウチに並んで坐る)
豊 玉 しばらくはこの宮で、ごゆるりとなされませ。ここは春も秋も一度に眺めらるる所
にござりまする。(運ばれ来たる膳、中央へ敷物を伸べ、並べらる。そこへ葺不合
を誘い)サテ召し上がれ、海の珍味を。御酒は如何じゃ。(献酬よろしくある)
葺不合 アア、酒というものを初めて飲んだ。よい心持ちじゃ。それに海の幸の味よき
事よ。アア、酔うた酔うた。何とも眠うなってきた。
豊 玉 (うれしげに)我が膝にお倚りなされませ。歌など唄って進ぜましょう。
(葺不合、素直に姫の膝を枕とする)
豊 玉 沖の鴎は揖取る舟よ 足を櫓にして櫂にして
葺不合 アア、何という倖せじゃ。
豊 玉 私も・・・。こんな日があろうとは。(つくづく我が子の顔を指し覗く)
薄の契りや 縹の帯の 解くに解かれぬ 片結び
葺不合 (起き上がつて)私には母がおりませぬ。叔母が一人、それに父の后たち。
皆口うるさく強き人ばかりじゃ。あなたのような手弱女が側にいてくれたなら、私は強
き男になれそうな気がして来た。あなたを守らんとするために。
豊 玉 男とはそうしたものでござりまするか。
葺不合 (豊玉姫の手を取つて)私の元に来ては下さらぬか。
豊 玉 エエ。(怯える。)
葺不合 それとも誰か他にいやるのか。きめしお人が。
豊 玉 イ、イエ、それは・・・・。
葺不合 では私があなたを一人占めにしてもよいのじゃな。
豊 玉 サア、それは。
葺不合 サア、
二 人 サア、サア、サア。
(豊玉姫、迫る葺不合を持て余し団扇にて顔を隠すが、軽くいなして)
豊 玉 マアマア、ごゆるりとなされませ。時は持て余すほどござりますれば。マア、お美
しきお顔がほんのりと色よき事、ホホホ・・・・。
葺不合 (真顔にて)イヤ、私には時間がない。父上が東へ行くと言わるるのじゃ。上つ国
へあなたを連れ行き、我が嫁じゃと人にも見せ、共に東へ行きたいのじゃ。
豊 玉 マア、何とお強きお心になられし事よ。うれしゅうござりまする。
葺不合 恋がそうさせるのか。イヤ、これが恋というものなのか。魂が出て行つて何もない
空の心が潰れそうじゃ。
豊 玉 困ったお方じゃこと。
葺不合 (なおも迫りて)姫よ。
豊 玉 マア、何をされまする。(几帳の陰へ走り行く)
葺不合 (あとを追い)姫よ、姫よ。
(二人几帳の陰で抗がう風情)
豊 玉 なりませぬ、なりませぬ。
(急に辺り暗くなり、魚の女や侍女たち薄闇の中を右往左往す。暗き海底の様とな
る。突然雷鳴あり。その時几帳より大きな鮫の尾鰭現われ大きく跳ねる。雷鳴と
雷光。鮫の頭も見え、のたうち廻る)
葺不合 (几帳よりはじかれ出でて) ワッ、これは、鮫じゃ、鰐鮫じゃ。
トほうほうの体で上手より逃げ出す。しばし雷鳴続くが、やがて納まり、鮫も
几帳へ入る。あたり少しずつ明るくなり、やがて几帳より頭飾り・衣服乱れし豊
玉姫現われる。
豊 玉 何という危うさよ。国つ罪を犯させじと正体見せてしもうたわい。我が身の醜さが
身を護る悲しさよ。何という、何という不倖せ。(床に崩れて泣く)口細や、口細や。
(ト呼び)あのお方を上つ国までお届け申せ。海亀の二郎に申し付けよ。
口 細 ハハッ。(急いで上手へ入る)
豊 玉 曽つて夫より、今又子より愛想尽かしを受くる身の辛さ。
この身を裂いてしまいたい。
(泣く。しばらくして) そうじゃ、この身を裂いて・・・・。
(刀子を取り、向こうむきのまま胸を切り裂く仕種ありて、胸より二つの珠を取り
出す。苦しみつつ袖で珠を拭う。胸より衣の上に赤いもの滲み出、それを押さえて)
豊 玉 誰ぞ、誰ぞある。真昆布を持て。
鯛 女 (駆けつけて) マア、姫様、何という事を・・・・。
豊 玉 心配すな。昆布で胸を巻いてくりゃれ。(鯛女、丈余の巾広真昆布にて豊玉姫の胸
を襷掛けに巻く。姫苦しげなれども珠を双手に差し上げ)父王様が玉盗りより守ら
んため、密かに我が胸に隠されしこの神宝の如意宝珠。金の珠は潮満珠、銀の珠は
潮乾珠。潮の満ち干を司る珠なり。否、潮のみならず、一つは物増す珠、今一つは
物減ずる珠。物の嵩司る珠なり。これを届け、愚なる身の詫び言せん。八尋鮫の鮫
五郎参れ。
(上手より大きな鮫現われ、姫の前へ来る。姫転びつつその背に乗る。両手に珠
をしつかりと抱えて)
豊 玉 イザ、上つ国へ、参上らん。
(鰐鮫、姫を乗せ、徐々に下手の高みへ昇り行く。昆布の端が長く尾を引く)
豊 玉 我が子よ、葺不合よ。今母が参るぞよ。この宝を、この宝を、今そなたに与えよう。
(暗転) 最上段へ
二場 笠沙宮
第一幕一場に同じ。前の場の一日後なれども、辺りは紅葉し秋の景色なり。
川音す。
(宮殿の階上より、槍の束、矢の束を担ぎし久米人、楯持つ隼人たち五六人、階
を下り下手へ運ぶ)
久米人一 これも積むべし。残りの物は何々ぞ。
隼人一 塩壷に水甕じゃ。兵糧も忘るるな。
隼人二 よしきた。
ト皆下手へ入る。その時水音して、上手岩場より葺不合よろめき出で、中央ま
で来て倒る。大きく肩で息をし、しばし項垂れいる。下手より玉依姫現われ、
葺不合を見て驚く。
玉 依 マア、葺不合さま、ご無事なりしか。皆々心配いたしおりましたぞ。
今まで何処へ参られしか。
葺不合 叔母上か、わしはわしは。(項垂れる)
玉 依 如何なされた。(労って抱くが)マアこのようにお濡れ遊ばして・・・・。
葺不合 わしは美しき姫に恋をした。なのになのに、姫は恐しき鮫に変わり・・・・。(泣く)
玉 依 さては海神の宮へ参られしか。(上手を見やり)三月の間もお行方知れず・・・。
父上もこの私も痩せる思いにござりました。
葺不合 何と言やる、三月とな・・・・。わしはほんの一日あの宮におりしのみに。
(不思議そうに 紅葉を見廻す)
玉 依 そこがあの宮の奇しき処にござりまする。もはやここは秋にござりますれば、阿
多が浜には軍船も出来上がりましてござりまする。
葺不合 何と不思議な・・・。
玉 依 み子さまの東へ行かれるお支度も出来ておりまする。しっかとなされませ。
葺不合 叔母上は何かあの宮をご存知のようじゃの。話して給もれ、何もかも知りたいの
じゃ。
玉 依 イ、イエ、わらわは何も存じませぬ。海の中に奇しき宮ありとのみ。それよりも
お召し替えを・・・・。まるで濡れ鼠の哀れなお姿、ホホホ・・・。(大声で)誰かあ
る、み子さまのお帰りじゃ。お召し替えじゃ。
(侍女二人下手より出で)
侍女一 マア、み子さま。よくぞご無事で。
〃 二 サア、参りましょう。
ト下手へ葺不合を連れて入る。
玉 依 (一人残り)さては姉上に恋をされしか。姉上もお困りであったろう、我が子に恋
を仕掛けられては・・・・。じゃが、胸が焦げる、アア、妬けるぞ、妬けるぞ。
お羨ましき姉上さま。ままならぬ我が身よ。(顔を覆う)
(その時、上手岩場より細き呼び声)
豊玉姫の声 妹よ、依姫、依姫。
玉 依 (驚き)誰じゃ、わらわを呼びおる声は・・・・。(岩場よりよろめき出でし豊玉姫を
見て)アレ、お姉様、お姉様では。
豊 玉 (苦しげに)妹よ、み子さまはお帰し申せしぞ。驚かせたる詫びに、この宝珠を差
し上げてくりゃれ。
ト二つの珠を差し出す。
玉 依 お姉様、一体如何なされしぞ、そのお胸は・・・・。
豊 玉 我が胸に隠されし如意宝珠を取り出したのじゃ。案ずるな、傷はいずれ癒ゆるによ
って。この潮満珠に潮乾珠を用いてな、倖せを呼ぶ事じゃ。潮司るのみならず、東
征の折々には兵器の数、兵共の人数も、又敵の数減らすさえ、意のままの奇しき珠。
玉 依 (受け取りて)有難き賜り物。お姉様、恩に着まする。
豊 玉 したがこの珠をこの上つ国へ置くからは、わらわも今よりこの国の生き物。今日が
日まで齢を知らぬこの我が身が、齢とって行くのじゃわい。いつの日かこの珠は石
に変ろう。その日こそ我が崩りの日。
玉 依 エエ。
豊 玉 この珠で依姫よ、み子と夫婦になるがよい。或る春の日の朝ぼらけ、み子と成した
る嬰児を抱き渚を歩む時、その足裏に触れしもの、薄紅色の桜貝。その一片こそこ
の我の、紅差し指の爪先ぞ。潮の流れにやる前に、拾いその子の宝にと、必ず必ず
なして給べ。
玉 依 そのような時が来るのでしょうか。み子さまのお子が授かる時が・・・・。じゃがわら
わの倖せはお姉様の不倖せ。(泣く)
豊 玉 心を強く持つのじゃぞ。必ずその日が来ると言うに。そのお子の名は、「神日本磐
余彦」。この中つ国を一つにし、始めて統らす大君じゃ。依姫さらば。
(よろめきつつ上手岩場へ消ゆ。水音高くする)
玉 依 (後を追い)お姉様、お姉様。(下手へ走り)み子さま、み子さま。
(葺不合、前より元気になり、下手より現われる)
葺不合 叔母上、わしが留守のうちにすっかり東征の支度が出来ましたなァ。旅の支度を見
るは心楽しきものよ。父上は何処におわしまする。
玉 依 父上は阿多が浜へお詰め切りにて、お船のご建造やら積込みに当たられておわしま
する。(珠を示し)み子さま、あの、今海神の娘がこの珠を届けに参りました。
み子さまへのお詫びにと・・・・。
葺不合 (珠を受け取り)これは何じゃ。
玉 依 金の珠は潮満珠、銀の珠は潮乾珠。奇しき術をなす珠にござりまする。
葺不合 塩土より聞きし事あるこの宝珠。フーム、(二つを見比べ)まことそのような珠か
験しみたきもの。
玉 依 め、滅相もない、み子さま。軽々しく扱われてはなりませぬ。
葺不合 又々説教か。叔母上、聞き飽き申した。(それを持ち楽しげに歩き廻り)サテ、
何がよいかな、何を験そうか。
(玉依姫、ハラハラして後を追うが、その時階上に、稚彦と赤猪子現われる。
葺不合と玉依姫、高床下に身を隠し、上を伺う)
赤諸子 み子さま、わらわも東へ行きとうござりまする。ご一緒にお連れ下さりませ。
稚 彦 ならぬ、ならぬ。唯でさえ我が身辺のうるさき昨今、それを言い出せば許さ
れぬ。閉じ込められ、忌み籠りを強いらるるは必定じゃ。今一度迎えに来るまで待
つのじゃ、のう赤猪子。(やさしく肩を抱く)
赤猪子 いつまでこの阿多に待ちおればよいのじゃ。齢とって山姥になるのは、いやじゃ、
いやじゃ。
稚 彦 必ず必ず迎えに来るぞ。案ずるな。
ト上手の凡帳の陰へ赤猪子を引き入れる。
赤猪子 必ずでござるよ、み子さまァ。
葺不合 (イキイキして)叔母上、よい事がある。この珠一つ借りまするよ。
ト金の珠を持ちて、ソッと階を上る。
玉 依 (後を追い)滅多な事はなりませんぞ、み子さま。
葺不合 (几帳の前で)赤猪子に齢波よ寄れ、齢波よ寄れ。
ト珠に呪をかける。と几帳の陰よりギヤッと声あり。
稚 彦 ワッ、たまらぬたまらぬ。(腰を抜かして這い出し、上手奥へ逃げて行く)
赤猪子 何じゃ、み子さま、どうなされた。
ト現われた赤猪子は八十余才の老婆の姿。ヨボヨボと後を追い、上手へ消ゆる。
葺不合 ハハハ・・・・。アア面白し、面白し。兄君のあの周章てようは。ハハハ・・・・。
(追って上手へ入る)
玉 依 マア、葺不合さまの悪戯者。オオ、そうじゃ、わらわも・・・・。
ト下手の几帳の陰へ銀の珠を持ちて走り入る。
玉依姫の声 お姉様、お姉様。わらわの齢波をどうぞ減らして、減らして。
(ややあって出で来ると、玉依姫は幼女の姿なり)
玉 依 マア、オアネイチャマノ、オイジワル。(ふくれる)
葺不合 (上手より現われ)ちょっとやり過ぎたか。あのままでは赤猪子が気の毒じゃ。
叔母上叔母上、銀の珠銀の珠。
(幼女、葺不合に近寄り、背伸びして珠を取り換える)
葺不合 オヤ、お前は誰?(不思議な顔)
(幼女プリプリして金の珠を持ち几帳の陰へ)
玉依姫の声 お姉様、お姉様。意地悪なされず、もう少し上の齢に頼みまする。
(葺不合、不思議そうに几帳を見つめている。ややあって出で来し玉依姫、妙齢
の美女なり)
葺不合 アッ、叔母上様・・・・。何と若く美しい叔母上、イヤ玉依姫よ。(怖々と珠を受け取
り、つくづくと見る)
玉 依 この珠の力、お分かりか。
葺不合 ほんに不思議な・・・・。もう叔母上とは呼べませぬ。(肩を抱く)
玉 依 倖せを呼ぶ珠じゃ。(目を閉ず)
葺不合 心に灯がともつたぞ。
(暗転) 最上段へ
三場 阿多が浜
第一幕二場に同じ。今は上手海岸に大き軍船あり。浜より渡り板を掛け、荷を積み
いる兵士たち。キビキビと指揮しいる彦火火出見。向こうより、珠を抱えし葺不合
と玉依姫、手を携えて走り来る。
葺不合 (七三にて)父上様、唯今戻りました。私も東へ参りまする。
彦 火 葺不合か、よう戻った。してその女は・・・・。
葺不合 父上、いやでござりまする。叔母上ではありませぬか。
彦 火 エエ、依姫か。
(皆驚き見る。二人本舞台へ来)
玉 依 恋を得て若返りました。
葺不合 父上、この珠を海神の娘より貰いました。物の嵩を司る不思議な珠にござりまする。
彦 火 ナニ、海神の娘からじゃと。ウーム、これは百万の味方を得しも同然。サア荷も積
んだ、船出じゃ、船出じゃ。皆乗船じゃ。
皆 オウ。(次々に乗船する)
葺不合 (舳にて金の珠を高くかかげ)潮の叶うを待つ事もなし。潮よ満て。潮よ満ちて船
を出だせ。解纜じゃ。
(艫綱解かれると、急に海面上がり舞台一面が海となる。船ゆらりと浮かび、ゆ
るやかに動き出す)

皆 ワッ、上げ潮じゃ、上げ潮じゃ。
(舷にて忌人の火酢芹、幣帛を振り祈る。彦火火出見・稚彦・玉依姫ら共に祈る)
葺不合 帆を張れーい。水主輯取よ、勇め勇め。
船人たち オウ。
(船、スルスルと筵帆を上げ、ゆっくりと向きを変え、大海原へ出て行く。
わずかに海面より出でし岩に捉まって、豊玉姫は密かに船出を見送る)
豊 玉 我が子よ、我が夫よ、我が妹よ。恙なき船旅を。
(少し苦しげに、しかし思いを込めて手を振る)
(幕)
あとがき
「海神魚鱗宮」は落選した作品ですが、しかしこの作品は書いている間じゅう楽しく、バーチャル・リアリティ(仮想現実)の構築の楽しさを味わっていました。わが故郷の長良川の清冽な水中世界や、青木繁の古代に想を得た「わだつみのいろこの宮」、原始のエネルギーを思わせる「海の幸」の画面を想いながら書き上げました。自分ではマンガを画くように書いた作品です。
(平成九年 新作歌舞伎 脚本)
*画 永美 ハルオ Wikipedia
*掲載しているデータについてテキストデータ及び画像の無断使用・転載を固くお断ります。
表紙へ
最上段へ
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