ねらい
頼山陽の詩のうまさを知ったのは、他人の詩への批正を目にした時であった。その詩の模糊とした空間が、一、二字変えることによって、俄かに霧が晴れ鮮やかに立ち上って来るのを見て、天才というのはこういう人だと思った。直された人は多分、自分の心を鷲掴みにされた快さに酔うに違いない。
山陽の弟子である江馬細香も、そんな一人であったろう。山陽を熱烈に恋しながらも、二人は結ばれることがなかった。詩の添削を受けるために京へのぼる他は、殆んど故郷の美濃を離れず、生涯一人身で画と詩を書いて過ごした。好んで竹の絵を画いたという。その竹のように風に逆らわず、自分を撓わせながら、しかし確固たる自分の道を歩いた人と言っていい。たゞ動きの少ない楚々とした閨秀詩人をどう動かすかが、私の課題であった。山陽という強烈な光源を紗に隠すことによって、少しはその人の陰翳が出せたのではないかとも思うが、背後から山陽の呵々大笑が聞こえていたのも事実である。
あらすじ
美濃大垣の蘭方医・江馬蘭斎の娘細香(多保)は、幼い頃から画と詩文の才に恵まれ、父の庇護の下に幸せな日々を過している。だが実は、詩文の師(頼山陽)に対する恋心を持て余していたのだった。師からも結婚の申し込みがあったが、父はそれを拒絶する。とかくの噂のある山陽に、大事な娘をやれないのだった。細香は従兄との縁談も妹つげに譲り、生涯誰にも嫁さぬと心にきめてしまう。時々上京して師より詩の添削を受けるのが、無上の喜びとなっていた。
細香が四十代にさしかゝる頃の山陽宅の花見は、忘れられぬ思い出だった。山陽の母
(梅颸)、山陽の妻(りえ)との源氏談義・・・・・夢にりえとの心の確執が、恐しい蛇となって現れる。細香は自分の心の底にある思いに気づくのであった。
安政五年、齢を重ねた細香ではあったが、いまだに凛とした色香を失わぬ、そんな細香の前に、ある日山陽の三男(三樹三郎)が現れる。姿も性格も行状もあまりに父に似る青年三樹三郎、細香は戸惑う。
三郎は今や国事に奔走する憂国の志士でもあった。一夜、細香宅で志士たちと談合を持った三郎は、その帰るさに細香より一枚の着物を貰う。それはひそかに縫い置いてあった山陽の着物だった。それを着た三郎の姿は、細香の中で師の面影と重なり、思わず抱きしめてしまう。
元気に別れを告げて去る三郎、それを追いかけるように闇の中より、死罪を告げる役人の声が聞こえてくるのだった。
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