新作歌舞伎脚本               表紙へ


             

   
竹 撓(たけしな)   (江馬細香(えまさいこう)伝)   羽生 榮
                   
 ねらい
 頼山陽の詩のうまさを知ったのは、他人の詩への批正を目にした時であった。その詩の模糊とした空間が、一、二字変えることによって、俄かに霧が晴れ鮮やかに立ち上って来るのを見て、天才というのはこういう人だと思った。直された人は多分、自分の心を鷲掴みにされた快さに酔うに違いない。

 山陽の弟子である江馬(えま)細香(さいこう)も、そんな一人であったろう。山陽を熱烈に恋しながらも、二人は結ばれることがなかった。詩の添削を受けるために京へのぼる他は、殆んど故郷の美濃を離れず、生涯一人身で画と詩を書いて過ごした。好んで竹の絵を画いたという。その竹のように風に逆らわず、自分を撓わせながら、しかし確固たる自分の道を歩いた人と言っていい。たゞ動きの少ない楚々とした閨秀詩人をどう動かすかが、私の課題であった。山陽という強烈な光源を紗に隠すことによって、少しはその人の陰翳が出せたのではないかとも思うが、背後から山陽の呵々大笑が聞こえていたのも事実である。

 あらすじ
 美濃大垣の蘭方医・江馬蘭斎の娘細香(多保(たほ))は、幼い頃から画と詩文の才に恵まれ、父の庇護の下に幸せな日々を過している。だが実は、詩文の師(頼山陽)に対する恋心を持て余していたのだった。師からも結婚の申し込みがあったが、父はそれを拒絶する。とかくの噂のある山陽に、大事な娘をやれないのだった。細香は従兄との縁談も妹つげに譲り、生涯誰にも嫁さぬと心にきめてしまう。時々上京して師より詩の添削を受けるのが、無上の喜びとなっていた。
 細香が四十代にさしかゝる頃の山陽宅の花見は、忘れられぬ思い出だった。山陽の母
 (梅颸(ばいし)、山陽の妻(りえ)との源氏談義・・・・・夢にりえとの心の確執が、恐しい蛇となって現れる。細香は自分の心の底にある思いに気づくのであった。

 安政五年、齢を重ねた細香ではあったが、いまだに凛とした色香を失わぬ、そんな細香の前に、ある日山陽の三男(三樹三郎)が現れる。姿も性格も行状もあまりに父に似る青年三樹三郎、細香は戸惑う。

三郎は今や国事に奔走する憂国の志士でもあった。一夜、細香宅で志士たちと談合を持った三郎は、その帰るさに細香より一枚の着物を貰う。それはひそかに縫い置いてあった山陽の着物だった。それを着た三郎の姿は、細香の中で師の面影と重なり、思わず抱きしめてしまう。
元気に別れを告げて去る三郎、それを追いかけるように闇の中より、死罪を告げる役人の声が聞こえてくるのだった。                  


                 竹撓ふ (江馬細香伝)               羽生 榮

登場人物
第一幕一場(江馬家裏庭の場)
 江馬蘭斎(蘭方医)
 〃 細香(多保・蘭斎の長女)
 〃 つげ(蘭斎の次女)
 温井元弘(蘭斎の甥・門人)
 治助(江馬家の下僕)


第二幕一場(山陽住居・水西荘の場)
 頼梅颸(頼山陽の母・歌人)
 〃りえ(頼山陽の妻)
 江馬細香
 黒衣一


第二幕二場(細香書斎の場)
 頼三樹三郎(頼山陽の三男)
 小原鐵心(大垣藩家老)
 武士一(山川才蔵・長州志士)
 武士二(青山利三・ 〃 )
 細香・つげ


第一幕一場(江馬家裏庭の場)

    江戸時代後期(文化年間)、美濃大垣の蘭方医・江馬蘭斎宅の裏庭。上手に薬品作りの作業
    小屋、裏口が開いてゐる。その建物の向かふに診療所兼母屋の屋根が見える。
    作業小屋前に釣瓶井戸。左奥に薬草園広がり、丈高い薬草には支へ棒などが見ゆる。
    左手前に枝折戸、奥へ竹垣を結ふ。舞台中央に筵一枚敷かれ、遠景は初秋の午後の田園風景。

    幕開くと、裏口より、江馬蘭斎の門人・温井元弘(二十八、九才)が、白い上つ張りで膏薬
    の大鍋を重さうに持ちて出で来、筵の上へゆつくり鍋を下ろす。中の褐色の粘液を左右に傾
    けて、液の状態を見る。しばしの後、納得の思ひ入れにて「ヨシ」と(うべな)ふ。
    裏口より治助(初老の下僕)が白い陶磁の容器を持ちて現れ、


治 助 オヽ、出来ましたな。

元 弘 この度はよい加減に収まりさうぢや。(鍋を傾けながら)泥膏は薬汁の煮つめ加減と脂の量、
    蜜蝋の割合が、何度やつても難しいものぢや。

治 助 ほんにほんに。

     ト治助の持ちゐる容器へ液を移す。

元 弘 この前は硬過ぎたによつて、此度は少し早めに上げてみたが・・・・・。

     ト治助、目の高さに捧げ見て、

治 助 なるほど、今は少し軟かめぢやがなう、冷めればよい加減ですろう。

元 弘 分かるかい? 治助もいつぱしこの家の門弟ぢやな。

治 助 め、滅相もない、若先生のおやりになることを、一心に見てをるだけでござつて・・・・。
     (容器を持つて小屋へ入る)

元 弘 ハハハヽヽ。(一仕事終へし後の弾みあり)

     ト元弘、残りの液を小鉢に取り、井戸端で鍋を洗ふ。治助、再び出で来、

治 助 アヽ、わしが洗ひますだ。

     ト屈んだ途端に、懐よりドサリと本のごときもの落ちる。治助びつくりし、周章てゝ
      拾ひ仕舞はんとする。元弘目に留めて、

元 弘 なんぢや治助、それは・・・・・。

治 助 つ、つまらんもんでして・・・・、絵本でござりますだ。
    (懐に入れんとする)

元 弘 いいから、ちよつと見せろ。(争つて取り上げる)

     ト治助急に土下座して頭を下げる。

治 助 お許し下さりませ。何しろ(かか)が孫にとせがむもんで・・・・・。買うて来てしまひましただ。

元 弘 (調べ見て)(べに)絵本と痘瘡退治の為朝の絵像ぢやな。

治 助 ご勘弁なすつて・・・・・。(頭を地につける)

元 弘 治助(うち)の太一坊は、今のところ疱瘡の経過もよういつてゐると言ふに、何でこのやうな(まじな)
    ひじみたものを買ふのか。わしの診たて・手当がそれほど頼りないか。

治 助 め、滅相もない。したが婆(ばば)がどうしてもと言ふもんで・・・・・。「疱瘡の子には赤いもんを
    与へよ、赤い着物(べべ)着せ、赤い本見せい!疱瘡の神さんのお(ふだ)、為朝様の絵すがた飾れ!」
    と聞かんもんで・・・・・。

元 弘 お前、それでも蘭医の家の下僕か!日夜新しき治方を学び診療してをるこの家の何が気に入ら
    ないのだ!(絵本を土に(なげう)つ)

治 助 お許し下さりませ。

元 弘 太一坊が病ひに罹つたのも、牛痘を勧めし折に受けさせなんだお前が悪いのだ。

治 助 「牛痘すれば牛になつちまふ」と嬶が()ぢまして・・・・ハイ。

元 弘 (おほ)先生より牛痘を受けし我々門人を見よ! 先年の大流行にも誰一人罹らず診療に走り廻
    れたのも、ひとへに牛痘接種、蘭方のお蔭なのだ!

治 助 恐れ入ります。わしもあの時さんざ勧めたのでござんすが、何しろ女子(をなご)は古いもんで・・・・・。

     トそこへ、この家の主・蘭斎(初老)、手に()を提げて小屋より出で来、

蘭 斎 何事だ、騒々しいぞ。如何いたした。

元 弘 アツ、先生、治助がこんなものを・・・・・。孫の太一の痘瘡は経過よういつてをりまするのに
    ・・・・・。

蘭 斎 ウム。(受け取り、開き見て)まあいいではないか、元弘。別に余分の薬を呑ますわけでは
    なし、このやうな物で家中の心が安らぐことなれば。元弘、心の養生も大事ぢやぞ。ひよつと
    すると赤いもんは、目から入つて心の活力・精気を引き出すのかも知れん。
   (本や落ちたお札など、(はた)いて治助に手渡す)

治 助 (おほ)先生、まことに申し訳もござりませぬ。(押し戴く)

蘭 斎 孫の養生専一(せんいつ)にな。

治 助 有難う存じまする。

     ト元弘、拳を固く握りしめ俯く。治助、元弘へ一礼し、鍋を下げて去る。蘭斎、下手奥
      に広がる薬草園の草取りをはじめ、

蘭 斎 元弘や。

元 弘 ハア。

蘭 斎 ちよつと来たがよい。

     ト蘭斎、草取りの手を休めず、近づいた元弘に、

蘭 斎 蘭方々々と言うたかて、病ひは悉皆(しっかい)体力勝負ぢや。如何なる良薬と言へども、寿命尽きし者には
    何の役にも立たぬわい。もともと寿命あるものなれば、()が赤絵を喜び、親共の安らぎ心で、病
    ひも早めに癒ゆるであらう。四角四面に洋方大事とやるのもどうかな。
    近頃わしは思うてをる、漢方・和方のよきところも我が治方に加へたしと。
    高直(かうぢき)の舶来薬を使ふに代へて、和薬で代りが出来ぬかと、お見やれ、「大同類聚方」にある薬草
    なども植え試してをるのぢやよ。江戸の玄白殿も日本の松で、テレメンテーナ(テレビン油)が
    採れぬかと、方々で松を探させておぢやるといふぞ。元弘、もそつと肩の力をお抜きやれ。

元 弘 (項垂れる。ややあつて、昂然と顔を上げ)先生、お騒がせ申しました。我が身の未熟さを
    つくづく感じました。病気はたしかに「気を病む」と書きまするのに・・・・・。今までつひぞ
    気づかなんだ・・・・・。

蘭 斎 医は一生の仕事ぞ、そげに(あせ)るでない。

元 弘 ハツ。(元気を取り戻し膏薬の道具を片づけて上手へ去る)

    (小鳥・鴉の声)

     ト向かふより江馬細香(多保・二十七、八才。楚々たる美貌)、被布を着て外より戻る心。
      手に画帖と小さき矢立を持ち、枝折戸より入る。

細 香 (とと)さま、只今戻りました。

     ト蘭斎、薬草の中より立ち上り、

蘭 斎 オヽ、写生に出かけやつたのか。

細 香 父さまは薬園のお手入れでしたか。

蘭 斎 まあ、今日のところはこんなものか。(手を叩いて薬草の間より出て来る)何をお画きぢや?
    (手の汚れを着物に擦りつけて、うれしげに画帖を受く)オヽ、蓮池と鴛鴦(をし)ぢや、
    よう画けちよる。

    (ニコニコ領きつゝ頁を繰る)

細 香 父さまはほんに片ときもお体を休められませぬなア。少しは身養生なされませ。それこそ
    「医者の不養生」になつてしまひますよ。

蘭 斎 (画帖を返しながら)何か齢に追ひかけらるる心持で、走り過ぎる()も知れぬなア。
    晩学の蘭方修業とて診療の合間にも学ばねばならず、蘭語辞典作りや蘭書の翻訳。近頃は
    和薬の見直しもはじめてなア。(薬園を振り返る)先ほど他人には急ぐなと言ひながら、
    ハハ、何たることか。そこへゆくと、多保は(みや)びぢやなう。イヤ、皮肉つて言うてゐる
    のではないぞ。お前のその姿、生活(くらし)ぶりを側で見てゐるのが、わしは喜びなのぢや。

細 香 うまくもない詩文を作り、絵を画いてをります私をご覧になるのが?

蘭 斎 さういふことぢや。

細 香 (くりや)仕事、針持つ手も半人前、何一つ父さまのお役に立てぬ我が身なのに・・・・・。

蘭 斎 幼くして(かか)さまを亡くしたお前たち二人の娘がいとほしうてならぬのぢや。まあ、
    妹の柘植(つげ)は放つといても強う生きる(たち)ぢやがなう・・・・・。

細 香 おつげといへば・・・・父さま、私より一つお願ひがござります。実は・・・・・、元弘さんと私と
    の口約束、妹に譲りたいと存じますが・・・・・。

蘭 斎 (びつくりして)何ぢやと?

細 香 元弘さんを嫌うて申すのではありませぬ。元弘さんはよきお人と存じてをります。何より
    従兄妹(いとこ)同士で気心も知れ・・・・・。

蘭 斎 では何ゆえに・・・・・。

細 香 おつげの方が私よりもつと元弘さんを慕うてゐると知つたからでございます。

蘭 斎 それで譲ると・・・・・。

細 香 そればかりでないことは、父さまもご存じでせう?私が一生嫁さないと心にきめてをりま
    すことも・・・・・。

蘭 斎 老舗(しにせ)の跡取りとの縁談も、家中(かちう)の重役の子息との話も、ニベもなう断り
    よつたからなう。尤も二つとも今の暮らしとあまりに違ふ所へ()くといふ()ぢも
    あつたらうが・・・。元弘なら婿として多保の側にゐてくれやう、わしも心配なう眼が瞑れる
    と、実は身勝手に考へたのぢやが・・・・・。

細 香 父さまのお気遣ひ、うれしう存じまする。ですがおつげが私以上に元弘さんをと、ふと
    気づき・・・・・。

蘭 斎 さうか。しかしお前さんはよくよく執着の薄い(たち)ぢやなア。小さき頃から人形や
    ママゴト道具、絵本も妹に取られ放題で・・・・・、淋しくはないのか、多保。

細 香 元弘さんもこんな私より、屈託のないおつげの方が合ひますろう。アレ、父さま、ちよつと、
    二人が参りましてよ。
   (二人周章てゝ薬草の茂みに隠れる)

     ト上手より元弘、続いてつげ(廿才前後の次女)も出て来る。

元 弘 (調子強く)つげさん、何しろ私は近いうちに貴女のお兄さまになるのですからね。
    今までのやうな一門人ではありませんからね。こんな転合(てんがう)をすると只ではすみま
    せんよ。熱い熱いお灸を、つげさんの嫌がるところに据えてあげます。

つ げ だからさつきから謝つてゐるぢやないの。いい加減にご機嫌を直されてもいいのに・・・・・・。

元 弘 久しぶりに自分の部屋を掃除しやうと思つたら、ハタキがこの(ざま)
    (三つ編に編まれたハタキを出す)誰がやつたかすぐに分かりましたよ!

つ げ ご免なさい。お掃除ならつげが喜んでしてあげましてよ。(ハタキを取りあげる)掃除だつ
    たら(あね)さまより上手なんだから。それにご飯炊きだつて姉さまよりうまいんだから。
    つげが(にい)さまの部屋をウーンときれいにして差し上げましてよ。

元 弘 駄目々々、わたしの部屋には女子(をなご)に見せられぬものが、たんとあるからね。
     (ハタキを取り返さんとする)

つ げ 女子に見せられないものつて何かしら、見たいワ見たいワ。

元 弘 メーツ。

つ げ その恐いお顔にかうすると、(元弘の頭にハタキの先を乗せる。三つ編が垂れる)まア、
    そつくり! お不動様に。

元 弘 コラーツ。
   (つげが笑ひながら枝折戸から逃げてゆくのを、元弘が楽しさうに追ひかけて、共に下手へ入る)

     ト茂みより蘭斎と細香立ち上り、顔を見合わせる。

細 香 お分かりになりまして、父さま。あれはもう恋人同士でしよ?

蘭 斎 なるほどな。(二人出て来る)多保がその気なら・・・・。元弘もあの様子なれば異存はなか
    らう。

     ト蘭斎、側の庭石に掛けながら、訝しげに、

蘭 斎 つげは本当は・・・・・そんな単純なものではないのぢやないかな。

細 香 父さま、何が申されたいのです?

蘭 斎 今ふと思うたのぢやが・・・・・、あれはお前がいつも妬ましくて、お前のものを色々奪つて来
    たのぢやないかと・・・・。多保は色んなものを持ち過ぎてゐるからな。親が言ふのも何ぢや
    が、母さま譲りの美しさと、詩文の才、画の才能・・・・。

紬 香 父さま・・・・・。

蘭 斎 つげはわしに似て元気だけが取り得で。

細 香 そんなことはありません。あの子にはよいものが一杯あるのに、父さまはそんな風におつ
    しやるのですか。

蘭 斎 我が子である可愛さを除けば・・・・・あの子はそこらの娘と変らないよ。

細 香 ・・・・・。

蘭 斎 多保は違ふ。わしの宝ぢや。もつともつとその詩文の才を伸ばしてやりたい、画才も伸ばし
    てやりたい。

細 香 画は禅林寺の玉潾
上人にお付け下され、詩文は京の山陽先生に見ていただけるやうにして
    下さいました。父さまのお慈しみ、身に余るほどですわ。・・・・・父さま、ご安心なされま
    せ。私、つげに一番大事なものは取られはしませんから。私が好きだと思ふお方は、決し
    てつげのやうな娘を好いたりはなさらないから。だから多保は、いつも安心してをります
    のよ。

蘭 斎 多保・・・・・。(多保の強い調子に気圧される)お前はやはりあの御仁を・・・・・。

細 香 ・・・・・。(俯く)

蘭 斎 実は先月、あの御仁より人を介して結婚の申し込みがあつた。わしは釣り合はぬと思うて、
    一存で断つてしもた。山陽氏は確かに詩文の天才児ぢや。その卓抜さで若者には人気の御
    仁ぢやが、京の儒者仲間にはえらく評判が悪い。曽ては放蕩児であつたといふし、よから
    ぬ噂も耳にする。そんな所へ大事な娘が遣られやうか。それに貧乏儒者の家計の切り盛り、
    多保には出来るか。・・・・・色々考へたが、やつぱり断つた。多保、許してくれ。

細 香 うすうすは分かつてをりました。添へないお方と、はじめから分かつてをりました。
    けれどこの気持は・・・・・止められません。あのお方は私に対して、終始師の域よりお出には
    なりません。しかしある日、詩文の批正の折、先生は・・・・・貴女の全身を添削出来たなら・・
    ・・・と独り言を申されました。

蘭 斎 多保・・・・・。

細 香 ですから多保はもうきめましたの、一生涯誰とも結婚はせぬと・・・・・。ですから元弘さん
    はつげに・・・・・。
    (顔を背け、手で顔を覆ふ)

蘭 斎 多保・・・・・。(娘を抱かうとするが思ひ止まり)許せ。(上手へ去る)
    (夕暮れの鐘の音)

     ト西日の庭に、二羽の色鳥が舞ひ降りて(ついば)みはじむ。細香、鳥に気付き、そつと
      写生帖を開き写生しはじむ。二羽は(つがひ)らしく、一羽がしきりに他に寄り添はんと
      し、仲睦まじく戯れ合ふ。細香それを見てゐて、やにはに(かんざし)を抜き二羽に
      投げつける。鳥驚いて飛び去る。

細 香 鳥は・・・・・解せず!人間(じんかん)に別離あるを!分飛すれば、(もと)む汝暫く相ひ思はんことを!

    (飛び去つた後へ、堪らず崩れて忍び泣く)

                (幕)




第二幕一場(頼山陽住居・水西荘の場)                   最上段へ

    文政十年三月、京都。屋体にて水西荘の客間。右へ続いて山陽の書斎、本が見えてゐる。
    前面と左方は庭。左奥に一本の桜、満開なり。右手前に小さき門ありて、春の夕暮れの景。
    山陽の母・梅颸(ばいし)(六十代)、江馬細香(四十前後)、山陽の妻・りえ(廿代後半)
    の女三人が、外出着でゆつたりと上手より出で、門より庭へ入り来る。

梅 颸 やれやれ、やつと帰り着きました。大層な人出でしたなア。花疲れ、人疲れ、ほんに草臥れ
    ました。(ふと庭の桜の満開なるを見て)オヤ、この家の桜も昨日はさうでもなかつたが、
    今日の陽気で一気に開きましたなア。

細 香 ほんになア。

梅 颸 知恩院の老樹も確かに良かつたが、
    これはこれで又よき眺めぢやなア。
    多保さん、男共の帰りを待ちながら、
    この桜で又一杯やりませうか。


細 香 結構でござりますなア。

り え 雲華(うんげ)上人の寺へお寄りでは、
    (あるじ)の帰りも遅うござりませうから、
    一まづお寛ぎなされませ。


細 香 雑作をおかけ申します。

     トりえ、二人を座敷へ招じ入れ、自身は
     奥へ入る。二人寛ぎ坐す。




           Yu.Saito (八歳) 画
細 香 お母上様はもはや観桜の二、三首はお出来あそばしましたでせう。

梅 颸 とんでもない。つい楽しさに浮かれ、何一つ纏まつてはをりませんよ。とにかく久太郎
    (山陽)がこの上なくよく尽してくれるので、うれしうてうれしうて。

細 香 ほんにお優しい先生で。世上のご名声も弥増(いやま)す昨今、お母上様もよきお子をお持
    ちになられて、お倖せにござりまする。

梅 颸 そのかみは全く手に負へぬ子でなう、幾夜ひそかに涙したことやら、ホホホ。


細 香 今になつてその償ひに、お母上様を故郷より呼び寄せられ、よきお暮らしぶりを見せられ、
    梅見ぢや桜狩りぢやとかうして楽しまれるやうに仕向けられ・・・・・。


梅 颸 まあ相も変わらぬ貧乏儒者なれど。りえさんがよう取り締つてくれてをる。りえさんには
    心の中で手を合せてをりますよ。

細 香 ほんになア。

     トりえ、普段着に着替へて酒を運んで来る。

梅 颸 まああんたも鬼のゐぬ間、一寸(ちょっと)寛がしやんせ。

り え おおきに有難う存じまする。(二人に酒を勧める)

梅 颸 昨夜久太郎より多保さんの詩稿を見せられてなア、脇より詩稿を取り出し)この「読源氏
    物語」、大変よき出来ぢやと私も拝見。久太郎も早速批正の筆を入れし様子で…。
    (頁を繰る)

細 香 マア、恥かしい。(顔を覆ふ)

梅 颸 どうやら多保さんは空蝉と夕顔がお好みの様子。

細 香 色に出にけり、でございますか。

梅 颸 (歌ふやうに)「我は愛す、空蝉の蝉脱し来るを」とは意味深長。多保さんは何からの
    蝉脱ぢや? ホホホヽヽ。夕顔の「一扇の相思両世の縁」とは、キツパリ言ひ切つて多保
    さんらしい。「又柔蔓(じうまん)(ぬき)んでて故に纏綿(てんめん)」とは、夕顔の柔らかな蔓が伸び、源氏に
    纏ひつき、又忘れがたみの玉鬘(たまかづら)が現れるを暗示してよろしいなア。

細 香 恐れ入りまする。

梅 颸 ぢやが、我が見立てでは、多保さんは空蝉や夕顔ではなうて、明石の上が似合ふやうな。
    美濃の遠くに住まはるるといひ、明石入道もをらるることぢやし・・・・・。

細 香 まア、ホホホ。我が父など、とんだ明石の入道さまですわ。

     トりえ、二人の話が理解出来ずにゐる。

梅 颸 (それを見て)りえさんはなア、久太郎の幼な妻ゆえ紫の上か。細香女史はご不満か。

細 香 イエイエ、この家へお入りの時はまだ十代であられたから、紫の上とはさすがのお見立て。

梅 颸 それにしてもあの久太郎を光君とは、罰当りにも程がある。ホホホ、酒の趣向ぢや、許して
    たもれや。

細 香 お母上は山陽先生には藤壷の女御様かしら。イエもつとそれ以上の愛され方。

梅 颸 オヤオヤ、だんだん恐うなつて釆た、ホホホヽヽ。

り え お母さま、紫の上といふお方は、源氏さまに永くいとほしがられたお方でせうか。

細 香 オウオウさやうぢや。心の中で一番大事な人だつたのだよ。なア多保さん。

細 香 その通りですわ。りえさまも山陽先生に末永く愛され続けられまするよ。

     トりえ、ポツと恥らひ、盆を持つて奥へ入る。

梅 颸 りえさんはなア、近頃絵も習うんぢやて。下手ながら蘭など画くんぢやて、久太郎が言うて
    をつた。それに襖の陰から久太郎の講義を門人と一緒に聞くんぢやて。無筆なあの子が大層
    な勉強なのぢや。

細 香 山陽先生に少しでも近づかうと・・・・。お偉いことぢやなア。(酒を勧め合ふ)お母さま、
    夕暮れの桜もよろしいなア。

梅 颸 ほんに、この家に不似合ひな立派な樹ぢや。夕桜、花衣、花疲れ。花には()しき言の
    葉が纏ひつく・・・・。アヽヽ酒が過ぎたせいか、少し眠うなつて来た・・・・・。

細 香 私も・・・・・。

     トあたりだんだん暗くなり、二人の姿も見えなくなる。と突然、

細香の声 りえさん、りえさん。

りえの声 細香さま細香さま。

細香の声 りえさん、何処にをらるるのか。

りえの声 細香さまこそ何処に。又我が(つま)さまの処ですか。

細香の声 何をお言ひぢや。貴女こそ私から山陽先生を奪つておきながら・・・・・。

りえの声 ちよつと、何をなさる。

細香の声 お前さんこそ私の髪を引つ張つて!い、痛い!

りえの声 貴女こそ私の髪をお引きぢや!

細香の声 誰か誰か、燭を! 痛い痛い。

    

     ト黒衣(くろご)、燭を持つて現れ、
     舞台中央の二人(細香とりえ)を照す。
     燭の灯、人魂のやうにまはりを浮遊す。


り え アレー、蛇ぢや蛇ぢや。

細 香 アヽ、痛い痛い、髪が絡まつて。

     ト二人の長い髪がはどけて、総てが
     無数の小蛇となり絡まつてゐる。

り え アヽ、怖や怖や。

細 香 誰か、助けて助けて。

     ト二人、絡まつた蛇を離さんとする。


                   (暗転)

   

                                            
第二幕二場(細香書斎の場)                          最上段へ

    安政五年春、江馬家の離れ(細香書屋)。屋体にて中央に書斎と右に小部屋あり。
    その上手へ廊下にて母屋へ続く心。左手丸窓の外に細竹の一叢、桜の一樹あり。
    総ての景うすぼんやりと見え、竹が激しく騒いでゐる。
    (風の音)

つげの声 (あね)さま姉さま。(火打ち石の音)

     ト行灯に火が入り、あたり明るくなる。細香、窓前の机に凭れて眠りゐる。
      七十才位なれど齢よりは若く、残んの色香ある風情。

つ げ 姉さまつたら、マア、(うた)た寝などなされて・・・・・。風邪を引きますよ。
   (膝掛けを肩へ掛ける)

細 香 (目覚めて)アヽ、眠つてしまつた。夕方から風が出たやうだねえ。風の音がするもの
    だから変な夢を見てゐたよ。(頭に手をやり)竹が騒ぐか、髪が騒ぐか・・・・・。

つ げ 姉さま、どうかなすつたのですか。

細 香 いや・・・・・夢を見てゐたらしい。

つ げ しつかりなすつて・・・・・。

細 香 昔の詩稿を整理してをつたのだよ。京の山陽先生のお宅の花見を思ひ出す詩などが出て来
    たものだから・・・・・。そのうち疲れて眠つたらしい。(詩稿の散つたのを、もの憂く取り
    集める)

つ げ (それを手伝つて)こんなに一杯詩を書かれたのですもの、亡き山陽先生が上木を勧めら
    たのも、尤もですわ。どうしてあのお話に乗られませんでしたの?

細 香 こんな詩など恥かしくて、出版なんか出来ませんよ。

り え でも世間では「当代の女流三詩人」の一人に姉さまを数へて、誉めてをりますのに・・・・・。

細 春 まあ、私が死んだら、皆で好きなやうにするがよいわ。

つ げ 姉さまはまだ当分死なれませんことよ。

細 香 厄介伯母をまだ当分甥たちが養つてくれやうか。

つ げ 姉さまも近頃はよう減らず口をたたかれる。お品のよろしい女流詩人でしたのに・・・・。

細 香 誰でも六十を越せば卒塔婆小町さ。

つ げ とにかく転た寝はお慎みを。

細 香 分かりましたよ。それにしても、何か用でここへお出でたのぢやろ?

つ げ サウサウ、それを忘れてしもて。(懐を探る)

細 香 相変はらず呑気なつげぢやこと。

つ げ (書状を渡し)先はど小原様よりお使ひが見えられて、これを姉さまにと・・・・・。

細 香 ナニ、小原様からぢやと?(手紙を急ぎ開く)

細 香 ・・・・・お人を一人(かくま)つて欲しいと・・・・・。知り人らしいが、ハテどなたか・・・・・。
    小原様と後ほど同道にて、とある。

つ げ このやうに暮れてからのお人とは。とにかくお泊りの用意ですね。

細 香 つげさん、手数をかけますなア。

つ げ なんの、構やしませんよ。門人の大勢を扱ひつけてをりますもの。一人や二人増えたかて
    なア、ホホホヽヽ。

細 香 頼り甲斐のある妹ぢや。

     トその時、扉を叩く音と人の声。

つ げ さてと、はやお見えらしいな。(と立つてゆく)

     ト細香、部屋の乱れを正し、姫鏡の蓋を取り髪を撫でつける。つげ、頭巾の二人の武士
      (一人は四十そこそこの、もう一人は背高き青年)を案内して来る。入口にて二人、
      頭巾を取る。細香、年嵩の武士に、

細 香 ご家老様・・・・・。

     トその小原鐵心(大垣藩家老)が一人の青年を招じ入れる。

鐵 心 お分かりかな、細香女史。

細 香 (息を呑み)分からいでか! 三樹三郎殿!

三 郎 小母さま、お久しぶりにござります。(日焼けした顔を綻ばせる)

細 香 こんなに逞しうなられて・・・・・。(見とれる)

三 郎 旅の帰りです。小原氏にお会ひする機を得、小母さまにもお会ひしたく・・・・・。

細 香 (部屋に招じ入れ)ようお出で下された。京でお会ひしてより、七・・・・・八年になるか、
    すつかり大人になられた。少年老い易く、とはこの事ぢや、ホホホヽヽ。して旅とは?

三 郎 蝦夷地(えぞち)へ行つて参りました。

細 香 蝦夷地へ!

鐵 心 実は後ほど二人、同志が参りますが、三郎殿を交へて少々密談いたしたく。

細 香 お安いご用です。ここは誰も寄りつきませぬ故、安心して使はれるがよい。

鐵 心 (かたじけな)い。藩の伊豆出兵に携はつてより、攘夷派の執政と見なされてしまひ、近頃
    我が家を嗅ぐものがござつてな。三郎殿を一晩お預り願ひたい。

細 香 オヽ、二晩でも三晩でも、一ケ月でも。

三 郎 イヤ、明朝越前へ発ちますから。

細 香 気忙しいことぢやなア。

三 郎 街道筋は歩き難いゆえ、遠まはりして京へ入らうと思つてをります。

鐵 心 近頃幕府の密偵が徘徊してをるのでなう。

三 郎 小母さま、旅帰りで少し臭いがご勘弁を。

細 香 久しぶりの男の匂ひぢや。ホホホヽヽ。風呂は如何ぢや?

三 郎 イヤ、人が参りますので。

     ト来訪者ある気配に、鐵心上手へ迎へにゆく。

細 香 (三郎をつくづく眺め)お出でた折は驚きましたぞ、あまりにお父上にそつくりで・・・・。
    背丈はだいぶお高いやうぢやが。

三 郎 (ニコニコして)父似の行状も伝はつてをるのでせうか。

細 香 伝はつてをるともさ。江戸で昌平黌を退学になつたことも、寛永寺の葵のご紋の石灯龍を、
     幾つも幾つも倒したことも。

細 香 アヽ、今から思ふと馬鹿なことをしたもんだ。母を思ひ切り悲しませてしまひました。
    もはや今は悲しむ人もをりませぬが・・・・・。

細 香 お母上は私よりもお若いのに早かつたなア。少しはお前さまのせいかも知れぬ。

三 郎 面目次第もありませぬ。

     トそこへ二人の武士入り来る。

武士一 お初にお目にかゝり申す。(それがし)は長州藩士・山川才蔵。

武士二 同じく青山利三、お見知り置きを。

三 郎 鴨厓(おうがい)・頼三樹三郎でござる。

     ト五人座に着く。つげが茶を持ち来る。

山 川 亡きお父上山陽外史氏のお名は、もはや我々には神のごとくであります。自分はごく若い頃、
    お父上があのナポレオンの事を詠まれた「仏郎王歌(フランスおうのうた)」を読み、血沸き肉躍
    る思ひがしました。

青 山 九州ご西遊の折の詩、「雲か山か呉か越か、水天髣髴(ほうふつ)青一髪、万里舟を泊す天草洋」・・・・・
    よきかな、よきかな。日本外史は就中(なかんづく)葦編(ゐへん)三絶 ″でござる。去んぬる年には
    お父上のご門人の森田節斎殿が長州にも参られ、大いに尊王攘夷を説かれて帰られ申した。

三 郎 慷慨(かうがい)家の節斎か、危ない危ない。

山 川 聞くところによると、細香女史も慷慨の詩をものさるるとか。

細 香 いさゝか屈しました折には、そんな詩も出来(しゅったい)いたしますが、お恥かしいものです。

山 川 細香女史も我々の談合にお加はり願へませんか。

細 香 いや、国事は男の仕事、女の力の及ばぬことです。どうぞそちらの小部屋をお使ひ下さい。
    私は夜中(やじう)見張つてをりませう。

     ト細香、四人を上手の小部屋へ招じ入れる。(風の音、竹の騒つく音)細香、手燭を灯し、
      袖で囲ひつつ庭へ下り、あたりを見廻る。やがて部屋へ入り、絵を画く支度をはじめ、
      絹布に得意の竹の墨絵を画く。自讃し印を捺す。画く間にも時々聞耳を立て、外を伺ふ
      しぐさあり。突然、小部屋より、
 
声    自由(フレイヘイド)

一同の声 フレイヘイド!

細 香 (それを聞き、ニツコリして)フレイヘイド!若い者らが、新しい時代を呼んでをるのぢや。

     ト小部屋から人々出て、鐵心と武士二人は細香に目礼し、帰つてゆく。三郎、書斎へ来て、

三 郎 小母さまはお(やす)みかと恩ひましたのに・・・・・。夜が明けまするなア。(と外を覗く)

     ト夜しらじらと明けゆく。三郎、細香の絵を見て、

三 郎 竹の絵ですね。

細 香 貴方への餞別に。

三 郎 うれしいな。小母さま、わたしは蝦夷地へ参つて色々考へが変はりました。箱館では鯨の
    やうな異国船が港を埋め、我が国の船は小舟ばかり。海防一つない裸のやうな国ですよ、
    この国は・・・・・。(独り言に変はり)攘夷はもはや達成はされまい。ならば英邁な将軍を
    仰いで国が一つになるしかない。井伊がそれを(はば)んでゐる。困つたことだ。
    もはや攘夷だ勤皇だ佐幕だと争つてゐる時ではない。一つに纏まつて国力をつけないと、
    大変なことになる・・・・・。
    (細香に)小母さま、今亡き父は慷慨家に利用されてをります。「日本外史」「日本政記」
    が少々勇ましいのが困りものです。父は今やすつかり尊攘派の頭目ですよ。

細 香 山陽先生はあくまで文芸として史書を書かれたのです。詩文があまりにお上手なので、人の
    心を惹きつけて止まぬのでせう。困つたことです。

三 郎 慷慨(かうがい)家の節斎あたりがそれを使つて煽動してゐるらしい。興奮して腹を切る者も出てゐる
    さうですよ。

細 香 お父さまも泉下で嘸困つておいででせう。しかし貴方がしつかりした考へをお持ちなので、
    安心いたしました。さうさう、もう一つ差し上げるものがありました。

     ト押入れを開けて包みを取り出す。中より着物が現れる。

三 郎 男物ですね。

細 香 実は下手な手ですが、私が縫つた大島紬です。お父上にお送りしやうと何度思つたことか
    ・・・・・。ついりえさまに遠慮して送らずじまひ、ホホホヽヽ。若い頃のことですよ。
    丁度よい折、貴方が着て下さればうれしいわ。ちよつと立つてみて・・・・・。

     ト三郎を立たせ、後から着物を着せ掛ける。袖を通させ襟を合せなどするうち、手が止
      まる。堪らなくなつて急に後より三郎の背をヒシと抱く。三郎、アツと思ひ、後ろ向き
      のまま目を瞑り、動かずにゐる。

細 香 先生、山陽先生・・・・・。(ふと我に返り)ごめんなさい、あまりによく似ておいで
    なので・・・・・。(恥らふ)

三 郎 いや・・・・・。(そ知らぬ顔で)少し(ゆき)が短かいやうですね、私には・・・・・。でも父にな
    つた気で着ます。有難う、大切にします。(畳む)・・・・・アヽ、すつかり夜が明けました。

     トそこへ、つげが弁当を持参する。

つ げ お早発ちとのことなので、むすびを作りました。

三 郎 雑作をかけました。(受け取る)

つ げ 草鞋(わらぢ)は新しいものをどうぞ。(庭へ(いざな)ふ)

三 郎 有難い。(庭に下り草鞋を履く)

つ げ くれぐれもお気をつけて。
    (一陣の朝風に、庭の桜がハラハラと散る)

三 郎 兄事する斎藤竹堂さんが申されたのぢやが、世を変へるのは「変へざるを得ざるの勢ひ」
    といふものが変へるのです。上層の政治は腐敗し、一揆が多発、先頃は大塩中斎殿の乱
    まで起り、もう少々の手直し位では、もはやその腐りは直らぬのです。新しい政体が
    必要です。

     ト花道の方へ行き七三で振り返り、声大きく歌ふやうに、

三 郎 「花を散らすの雨は、是れ、花を催すの雨」、私が倒るるともその雨は、次の花を咲かせ
    る雨となるのです。以て瞑すべしです。(行きかけて戻り、細香に)小母さま、やはり
    これは小母さまのものに・・・・・。(畳んだ着物を返す)その代り・・・・・(竹の絵を懐から出し
    旗のやうに振つて)これは戴いておきます。(笑顔で向ふへ)フレイヘイド!小母さま、
    お達者で!

細 香 フレイヘイド! 気をつけて!(手を振る)

     ト舞台だんだん暗くなり、中央の細香のみに照明が当る。受け取つた着物、パラリと垂れ、
      細香、胸に抱く。

細 香 (三郎の背へ)山陽先生、おさらばでござります。(茫然と立ち尽す)

役人の声 頼三樹三郎義、外夷海防の筋に付き、(みだり)りに浪人儒者梅田雲浜(うんぴん)と申合せ、国家重大の御政事
    向、梁川星巌(せいがん)と談合入説(にうぜい)いたし、天下撹乱を醸し公儀を憚からざる始末不届に付、死罪申附。

    (声重々しくだんだん大きくなる)

                 (幕)

                              羽 生  榮


                   国立劇場 平成十三年度 新作歌舞伎脚本 一席
                   
 
参考文献 「頼山陽とその時代」 中村真一郎著
     「江馬細香」     門玲子著 
     「湘夢遺稿」     門玲子訳注
      他


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