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匂花武者絵 羽生榮
あらすじ
時は鎌倉三代将軍実朝の頃。執権北条時政は目障りな有力御家人を除き、自己の権力確立を図っていた。北関東の雄・畠山氏にも魔の手が伸びようとしていた。
重忠は母を人質にといわれたり、息子重保が謹慎をくらったりのイヤガラセにあっていた。病後の母には呆けがきており、人質どころではない。一族の稲毛三郎は既に北条方につき、畠山へ内偵に来る。その折畠山への同心の証として榛谷から来ている美しい白菊に三郎が執心。しかし重忠にいなされる。
神馬献上で難題を逃れんと、重忠はその途につくが、二俣川の増水で川止めにあう。重忠は大力で馬を担いで川を渡る。神馬献上で母のことも息子の咎めも解かれて、重保は鎌倉へ行くことになり、愛し合う白菊と重保は暫しの別れを惜しむ。
しかし鎌倉への途上で北条の騙し討ちにあい、重保は命を失う。白菊は裏切った稲毛の元へ行き、靡くと見せてその首を取って帰り、自害してしまう。重忠は息子の弔合戦に僅かな手勢で打って出ようとする。
老母はその門出に秩父甚句を唄つてやると言う。しかしそれは母の故郷・三浦の、三崎甚句だった。重忠はその事を悲しまず、却って救われたと心から思うのであった。
新作 文楽脚本
匂花武者絵 羽生榮
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登場人物
(武蔵菅谷館の段)
畠山重忠(武蔵秩父の領主)
栄子(重忠の妻・北条時政の娘)
三崎の前(重忠の母・三浦義明の娘)
白菊(榛谷重朝の娘・人質)
稲毛三郎重成(稲毛荘の領主)
侍女千鳥 庭師杉作 家司 踊りの子供 乙名稲造
(二俣川川止の段)
重忠 従者 見物人 神馬
(鶴ケ岡八幡宮社頭の段)
北条時政(幕府執権)
北条四郎義時(時政の四男・栄子兄)
三浦義村(三浦氏の惣領・三崎の前の甥)
重忠 稲毛三郎 従者 馬飼 神馬
(菅谷館奥庭・恋螢の段)
畠山六郎重保(重忠の六男)
白菊(重保の恋人)
栄子 三崎の前 家の者
(重忠謀叛の段)
白菊 栄子 三崎の前 重忠
畠山小次郎重秀(重忠の次男)
近習侍 従者 使者 重保の亡霊 注進
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武蔵菅谷館の段
忠孝は国の柱といふぞかし。扶桑の鑑唐土に二十四人の孝子あり。虞舜・漢文帝をはじめとして、いずれ劣らぬ孝の者。それにも引けはとらぬといふ武蔵の国の総検校・畠山荘司次郎重忠、母の為なら雪中の筍さへも掘らん勢ひ。力余ってその孝心、今日も今日とて庭の木を、母の生まれし三浦の木々に、取り替へんとの魂胆なり。
「さてこの北武蔵菅谷の土に、暖地の蘇鉄が根付くかなう、ナウ杉作。」
庭師杉作掘る手を休めて、
「ハテサテ、おれにも分かり申さぬ。根付くものなら根付くじゃらうが。」
重忠グイと汗ぬぐひ、
「体は本復なされしが、すこうしばかりおつむの方が、三浦におじゃるかの
やうに取り違へさっしゃる母上様。悲しや、病ひが進んでござった。」
「ハアそれで、庭の景色を三浦岬にしてしまおうと。」
「これは無理な相談じゃ、雪中の筍じゃ。」
といへどもその手は休めもせず、エイとばかりに持ち上ぐ大木。
「お館様の孝心を神も御照覧あそばされ、きっと根付くでござりやせう。」
杉作涙と汗まとめ、グイとぬぐひてゐたりけり。
梅雨晴間、川の瀬音もドウドウと、どうやらかうやら歩める老母・三崎の前、嫁の手引で庭木戸より、
「ヤレヤレやっと辿りついた。」
嫁の栄子は姑の手を取り、促すやう、
「姑上様、もうチットでござりまする。庭を通ってあの縁端まで。」
「もう歩めぬわ、足がきつうて。」
重忠母を目に止めて、
「ヤア母上様、今日はたんと歩けましたな。サアサア某が抱いて進ぜませう。」
と老母軽々抱き上げ、縁の上にぞ上がりにける。腰元千鳥追ひかけて、
「アンレマ、お草履、お草履。」
とあわてふためき脱がせにける。
老母座敷に一息つき、
「次郎よ次郎、おもとの嫁御はきつい奴よ。北条の女はハア、姉も妹も
きつしきつし。」
「アレ姑上様、それこそきついおっしゃりやう。病ひのあとは歩くが一番、
と医者もいってじゃござりませぬか。お前様も母上様に楽をさせてはなり
ませぬぞえ。」
「ナンノ、年寄りは楽が一番。つらいのはお可哀さうじゃ。」
気は優しくて力持ち、重忠母には盲目の孝養。栄子は姑に湯茶勧めて、
「去んぬる年の秋口に、お倒れなされしよりこの方、鍼・灸・薬に揉療治。
お蔭様にてこれ程迄に回復なされし有難さ。薬師如来・八幡大菩薩の御加護
も篤き畠山。お礼参りに満福寺まで、来月にはお供いたしませうわいなあ。」
三崎の前驚きあわて、
「エヽ、満福寺まで行かせる気かいなあ。」
「ここからはほんの目と鼻、大した道のりでもござりますまい。」
「イヤイヤこの三浦からはとんだ道のり。三日はタップリじゃないかいなう。」
「アレ、母上様。」
「マア、姑上様。」
「三崎の前様。」
と皆々絶句するばかり。
老母は山々打ち眺め、
「今日は鯨が潮を吹いたぞ。沖の白帆も二つ三つ。」
「エヽ、母上様、鯨とな、ハテ白帆じゃと。」
「ホレホレあれに、あそこにも。」
指さす先は野焼きの煙、夏草刈りて焼きゐたる。心塞がり身も世もなきを、
次郎重忠けぶりも見せず、
「母上様、ほんに鯨じゃ。舟影じゃ。まつこと今日は大漁じゃ。」
と手の舞ひ足の踏むところ、二十四孝子に劣らざる。
奥より家司の出で来り、
「先頃より御下命ありし踊りの子供、揃ひましてござりまする。」
「そうかそうか、丁度母上もここにおいでじゃ、早速庭で踊らせい。」
「畏って候。サアサア子供出でませい。」
と呼ばはれば、木戸より着飾る子供達。多勢の中に白髪の老爺、縁に馳けより手を仕え、
「姫様、三崎の前様、お懐かしう存じまする。」
「オヽ、三浦の庄屋・乙名の稲造ではないかいなう。」
「姫様にお目もじいたし、爺はもう。」
と喉詰まらせて涙声。
姫も老婆に乙名も老爺、三浦の磯の手踊りの、手引きの為に呼ばれし者。
「サアサア並んだ並んだ。そらチャッキラコ、チャッキラコ。」
踊る手毎の鳴物も、波を呼子の笛の音も、外山遠山奥山の秩父の山に谺して、響く汀のチャッキラコ。
そら、チャッキラコ
チャッキラコ
ヤンヤ、ヤンヤと喜べる老母の顔の明るさに、開く次郎の愁眉なり。
「ヤヤヤツ。この非常の時に歌舞音曲。次郎め狂ったか。」
ズカズカズカと庭より侍。
「我こそは稲毛三郎重成。執権殿の御取次に参りし者。」
庭の騒ぎも水入りと、なりてスゴスゴ退く潮の、重忠稲毛を迎へ入れ、
「サテサテ遠路はるばる御取次の役目御苦労に存ずる。」
「過日御下命の件は如何に。」
と詰寄れば、
「母上様お疲れあらう、お寝間へなりと。」
と促す重忠。妻は老母と退がり行く。
重忠やをら座に直り、
「執権殿より、母を鎌倉へとの御下命なれど、先頃より患ひおりし母
なれば、連れ行く事もまゝならず。少し痴れの来ました故、今も今とて
三浦の踊りを母に見せ、慰めおりましたるところ。」
稲毛も道理と心を変へ、
「御息男重保殿のお咎めも未だ解けぬこの畠山。非常の時に何事、と思ひし
まゝに大声をあげ、イヤハヤ無粋々々。某も畠山の縁に連なる者にして、
又執権殿の相婿なれば、何とかお仲を取り持たん、と思ひし上のこの気苦労、
お察しなされて下されや。」
重忠ガックリ頭を垂れ、
「お噯、重ね重ね胆に銘じておりまする。」
白菊、茶を捧げ持ち来れば稲毛ビックリ、
「オヽ、そなたは榛谷重朝殿の御息女白菊姫、どうしてこれに。」
と訝しむ。白菊稲毛に手を仕へ、
「榛谷より行儀見習にここへ参って三年余、稲毛様にはお変わりもなく」
「オヽオヽ美しうなられた。そなたの母御よりもなう。」
重忠稲毛に打ち笑みて、
「お手前はその上、白菊殿の母御・英御前にいたく御執心ありしよなう。」
白菊驚き、
「エヽ、母様に。」
「とんびに油揚、イヤ榛谷に英奪られてしまうた。ハハヽヽヽ。」
と笑ひに紛らす稲毛三郎、俄に執心表して、
「ムムヽヽヽ、母御より幾層倍も美しい。重忠殿、この花某に譲り受けたし。」
「イヤ、この花外にはえ植ゑられぬ。」
重忠拒む言葉は柔らかなれど、
「近頃関東一円不穏な情勢、武蔵守の権勢にて平賀は何かと無理難題。
又横山党も内訌にて、我等一族結束して事に当たらんと思ふ所へ、榛谷より
同心の証とて白菊殿を送って寄こした。お譲りは致し兼ねる。」
「母御の貸しを娘にて算用合はすは虫のよい事」
と腰元千鳥口添ふれば、
「イヤ母は忘れた。今目覚ましきこの想ひ。」
と詰め寄れば、
「アレー。」
と白菊逃げて行く。稲毛は奥へ大音にて、
「マアマア今だ幼さ残る蕾の花、盛りまで預けておかう。」
と未練タラタラ捨台詞。座に直って申すに、
「重忠殿には如月以来の御帰郷の由。御子息の御下国のみか、重忠殿まて
御在国とは不審なり、との専らの評判。何とか母御をお連れあって、鎌倉表
へお出であらぬか。」
と畳む言葉もつれない言の葉。
重忠思案の面を上げ、
「某の在国も母の身を案じてのつい長逗留、他意はござり申さぬが、鎌倉へ
連れ行くは忍びない。代りに神馬献上とはいくまいものか、なう三郎殿。」
と相談かくれば、稲毛ハッシと膝打ち叩き、
「それは妙案々々。何はさて置き名馬好みの執権殿。その上八幡宮へ献上と
なれば、さぞや御所様もお喜び。」
と手の裏反し気を変へてのホクホク顔。
「武蔵・秩父の牧のうちより、選りすぐっての駿馬一疋、献上いたす所存なり。」
「その神馬をお連れあって、お目見得なされば疑ひも晴れ。」
「ハテ何の疑ひ。」
重忠キツと面を射れば、
「重忠殿御謀叛の兆ありとの。」
いはずもがなの由なき一言。
「ナニ謀叛とな、この重忠が謀叛とな。言ひも言つたり、聞きも聞いたり。
故殿御旗上げの折よりこの方、二心なき我等を指して、何を証拠にそのやうな。」
「イ、イヤイヤ、それは心なき奴原の由なき戯れ言。お許しあれ、お許しあれ。」
とニタニタ顔も面憎し。
「今日は一夕酒酌み交し、相婿同志語り明かさう。」
重忠稲毛を誘ふを遮り、
「イヤ、鎌倉表も近頃物騒、チョイの間も空けられぬ。鎌倉へお出での折の、
オヽその時の楽しみにして。」
とソソクサ道草喰はざる魂胆。
重忠、一族の誼にて
「愚息豚児も何とぞよしなに。」
頼む心も子ゆゑの闇、稲毛に合す両手の平。仏と邪鬼を取り違へ、拝む心ぞ
二俣川川止の段 最上段へ
哀れなる。
菜種梅雨・青梅の上に降る雨も、過ぎていつしか梅雨晴れの、夏至も間近き頃なれば、二俣川の水嵩も増えて浅瀬は渕となり渕は早瀬と様変へて、ドウドウドウと、恐ろしく、今差しかゝる街道の、岸を洗へる川水が、崖と抉りし物凄さ。人々川見に立ち騒ぎ、
「アレあのやうに抉られては、岸辺に下りる事も叶はぬ。」
畠山重忠、鎌倉殿へ神馬献上の途。領国随一の白き駿馬に赤総かけ、美々しく装ひ曳き来る。
「さてもはや三日になる足止め。余りの遅参は御不審の因。何とか渡る策は
ないか。」
従ふ者共口々に、
「日を待つうちに水嵩が、増々ふえて参りました。サテどうしたらよからうぞ。」
「思い切って押し渡らう。」
「イヤ、大事な神馬が流される。」
と立ち騒ぐ。
畠山意を決したる面にて、
「某が神馬を負ひ奉らう。」
やにはに馬の口取りて、馬の腹下に首さし入れ、エイヤの掛け声もろともに神馬を肩に担ぎたる。人々アッと驚くうち、高き崖よりノッシノシと下る足元確かにて、金剛力士も斯くやとばかり、仁王立ちして下りける。鵯越の逆落とし、己の馬を労りて、担ぎ下りし語り草。今ここに見る岸の人、ヤンヤヤンヤと口々に、花ある武士を囃しけり。
折も折りとて一羽の鶯、右に左に川の面、鳴きながら飛びゐたる。鳥ぞ導、こなたへ渡り給へやと。
「さては浅瀬を告ぐる老鶯。」
重忠馬を担ぎしまゝ、喜び勇んで渡りゆく。
時ならぬ岸の小笹の鶯は
浅瀬たづねて鳴き渡るらん
岸に着きたる神馬と重忠、
「オーイ、者共疾く続け、続け。」
皆ハッとばかりに我に返れば、先を争ひ渡りゆく。神に捧ぐるその前に、はや霊験の顕はるゝ神馬を奉じ鎌倉へ、一目散に
鶴ケ岡八幡宮社頭の段 最上段へ
走りゆく。
掛巻くも畏き神のみ社を、東に勧請なされしは源の頼義公。神の心を汲みて知らばや石清水、湧き出る岡は鶴ヶ岡、ここに鎮まる八幡の、お蔭も深き源の、三代将軍実朝公。その代参にて執権北条時政殿、四郎義時率き連れて、八幡宮の杜前に控へ申すやう、
「御所様は今日も連歌のお集まりにて、先考の月詣も等閑の御日常には、
ハテサテ困ったもの。したが御代参の我等、一先この社頭に集まり密議を
練るには勿怪の幸ひ。同心さなされし各々方、まず腹蔵なくお聞かせ下され。」
稲毛三郎進み出で、
「執権殿の御内命にて、畠山の菅谷館まで出向きし某、噂の謀叛は毛ほど
も見えず、老母の病ひを気に病む凡夫、明らかに見届けましてござりまする。
したが老母人質はボケが来ました故、何としても御宥免のほどを、と申しおり
ましてござりまする。」
時政殿打つ手外れし不機嫌顔。
「さうか、かの母者はボケたとか。そこな三浦義村殿、そなたの叔母御はボケ
たさうな。」
三浦義村面を伏せ、
「近頃の消息にては、しきりに三浦を恋ふておるさうな。憐れな叔母で
ござりまする。」
「武威に奢れる畠山、息男六郎重保は京に出向きし折節に、我が婿平賀朝雅
と些細な事で口争ひ、近頃思ひ上りたる振舞なり。重保は我が孫なれど蟄居
を命じ下国中。それを重忠まで在国とは危ふき事、危ふき事。」
「一思ひにお討ちあっては。」
と追従口調も異口同音。
四郎義時進み出で、
「父上のお言葉なれど重忠は、忠直を専らにし、右大将殿も慇懃のお詞を
遣はされし者。まして我等兄弟の妹と婚し、父上には御父子の礼を重んずる。
今粗忽に誅戮を加へらるれば、定めし後悔致されませう。」
と楯つく言葉にタジタジと、
「したがこのまゝ虎を野に放っておいてよいものか。」
「危ふし危ふし。」
と口々にのゝしれば、注進の進み出で、
「只今畠山殿、御着到にござりまする。神馬献上と申され、あれに控へて
おられまする。」
畠山重忠進み出で、ガッパと伏し申すやう、
「執権殿には御機嫌よくゐらせられ、恐悦に存じ奉りまする。某只今戻り候。
病ひの母に代へて神馬献上、何とぞ御許し下されませ。」
時政殿打って変はりしニヤニヤ顔。
「オヽ婿殿今戻られてか。ても長き御逗留。嘸や母御の乳房は美味でありし
事よなう。」
重忠涙の泥を噛み、
「何ともはや無残な味でござりました。孝心は両の手に余れども、尽す策
もなき様にて。」
「神馬献上殊勝なり。母者の事許して遣す。」
「ハハッ有難き幸せ。これなる馬は領国一の駿馬にて、御意に叶へば二重
の喜び。雨乞ひには黒馬なれど、今年は日照り不足にて、白馬がふさはし
からうと存じますれば。」
馬飼ひの太き手綱に率かれ来る神馬の白馬賑々しく、赤総靡かせ出でにける。
「オヽ神馬じゃ。神馬じゃ。」
時政殿頬ゆるませ、
「よい馬よい馬。」
と撫でさする。
「稲毛よ稲毛、この馬乗ってみい。」
稲毛三郎顔色変へ、
「滅相もござりませぬ。汚れなき神馬に某などが。」
「いいから乗ってみよといふに。ソレ下世話にも言ふではないか、馬には
乗ってみよ、人には添ふてみよとな。ハハヽヽヽ。」
手取り足取り押し上げられ、否やも云へず稲毛三郎、白き大馬に猿の身の丈、オッカナビックリへばり付く。やにはに嘶き前足上ぐれば、ドッと転げてしたゝか打ち、バッタリと倒れたり。
「稲毛殿、稲毛殿、大事ないか。」
あわてる重忠。
「ムムヽヽヽ大事ない、大事ない。さては某に含む所あり荒馬を。」
「イヤ滅相もなき事。お許しあれよ稲毛殿。」
と重忠稲毛を労はれば、
「婿殿、畠山殿お乗りあれ。」
再びかゝる悪意の声音。
「ヤヤッ、こはいかに。某は神馬と敬ひ奉り鎌倉まで来りし者。
お許しなされて下さりませ。」
「ならぬ、ならぬ。乗りし上にて名馬か駄馬か見届けん。疾く乗り給へ。」
否やも果たせず畠山、ヒラリと馬に跨がれば、鞍の後輪に付けたる螺鈿の、花も散らさぬ涼やかさ。神馬も乗り手に息合せ、サッサッと歩み行く。
「さすが名馬じゃ、関東一じゃ。」
と時政手を打ち褒めちぎる。
「婿殿、今度はあの松へ。」
重忠驚きおのゝきて、
「御無体な事を申さるゝ。いかな名馬も木登りは出来兼ねまする。」
「やれと言ったらやるがよい。」
目玉ギョロリの強面時政。
重忠止むなく乗りかくれば、神馬の足より雲湧き上り、肩より翼の生え伸びて、重忠乗せて軽々と、大松の木に登りゆく。
「ヤヤッあの雲は、あの羽は。天馬じゃ、天馬じゃ。あの神馬は。」
と人々見とれて立ち騒ぐ。心汚なき者共には絶えて見えざるこの変化。
執権殿は、
「な、なんじゃ、天馬とな、翼じゃと。」
とオロオロ顔。
神馬樹上に嘶けば、重忠松より降りにける。
「まっこと神馬にふさはしき名馬にて候。」
と手を仕へれば、時政満足の面にて、
「重忠殿、この度の事重畳々々。重保も蟄居反省の日々と聞けば、
他ならぬ我が娘の子ゆゑわしも憎うは思はぬぞよ。将軍家にも近しき
従兄弟にてあれば、粗略にしては相済まぬ。近々謹慎を解くゆゑ、
早々に鎌倉へ参られよ。」
重忠ハッと喜びて、
「それではあの、愚息めもお許しが叶ひますのか、義父上様。」
ガバと伏したる重忠に、執権殿は稲毛と目くばせ。胸に一物手に荷物、馬の口取り機嫌の声色。
「よい馬じゃ、ハヽよい馬じゃ。」
やにはに前足空を蹴り、ヒヽンと一声嘶けば執権手綱を飛ばされて、尻餅ついて
菅谷館奥庭・恋螢の段 最上段へ
転びけり。
夜の庭の闇に浮かぶは螢火の、恋に身を灼く主と我れ。鳴かぬ螢も鳴く虫も、いずれ変らぬ恋の虫。白菊姫紙燭取り、重保殿を待つ今宵。露けき闇に螢火の、点ると見せて吸ひ寄せる、
恋の力は五大力。
「アレ若様、これにこれに。」
燭で知らせる恋の道、こちらの水は甘いぞ甘いぞ、甘いぞ。
重保ヌッと現れ出で、
「白菊殿、会ひたかった。」
「わたくしも。」
はや灯もいらぬ二人が仲、闇に抱き合ふ影と影。
「今宵鎌倉よりの早馬にて、我が謹慎の解かれし由。早速の鎌倉行きと
なれば、当分はえ会へぬ。そもじを連れて行きたし、行きたし。」
「若様それは叶はぬ御事。今が大事の御時なれば、色に耽けるは以っての外、
と皆が皆申しませう。白菊お戻りを待ちまするゆゑ、心安うお発ちなされませ。」
「年上なれば賢しら口に、憎き女め。」
「十六と十五の恋は拙くて心もとなき思ひについ、世間の口真似いたしました。
お許しなされて下さりませ。」
「そもじの下衣、我れが着て行く。それなれば。」
「アレ若様、恥かしい。」
「わしの下襲そもじに遣らう。」
「勿体ないそのお心、白菊生涯忘れませぬ。」
萩も尾花もまだ咲かぬ、庭の葎の草蔭に脱ぎ交したる下の衣。
折しも縁伝ひに家の者、大声にて、
「若様、重保様、いずれにおはすや。御旅立ちの刻限に候。御支度調ひ候や。」
と部屋に灯火入れて去る。
闇になほ、螢の影の二つ三つ。幼妻、夫の支度を手伝へば、黙し螢が身を焦がす。
奥より母の出で来り、
「重保殿、支度は済みゃったか。」
重保下に手を仕へ、
「母上様、今度の事、御心配をおかけ申し、まことにまことに申し訳も
ござりませぬ。某の粗忽な振舞、反省の日々でござりました。お祖父様
に謹慎解かれ、かやうに喜ばしき事はござりませぬ。」
「祖父様は婿君ばかりに肩入れされ、孫には冷たきお方じゃと、わらは
もひそかに恨んでじゃった。これでやっと昔の祖父様じゃ。」
三崎の前も出で来り、
「オヽ支度は調ひしか。美しいぞよ。今宵は一段艶やかじゃぞよ、重忠殿。」
「アレ祖母様、わたくしは。」
「今度そもじは右大将殿より、大きにお褒めのお言葉頂戴。母として
うれしう思ふぞ。日頃学問に励むゆゑ、おことの鷹談義はさぞ見事なもの
でありしよなう。わらはにも聞かせて給も。」
重保戸惑ひしも心を決め、
「故殿も殺生戒は御存知ながら、お鷹狩をなさりたきお心ありしゆゑ、
唐土やら我が国やらの故事をひき、お鷹狩の是非を論じましたる次第。」
三崎の前手を打ちて、
「その学識ゆゑ、お褒めの言葉と御領地頂戴いたしたとな。目出度い、
目出度い。畠山の家の誉これに過ぐるものはなし。これからもご奉公専一に。」
栄子は沈みし声音して、
「父上の若き頃と間違はれてか。悲しやな重保殿。面差しの似たるゆゑに。」
「父上の鷹談義は、富士の巻狩の折なれば、はや十年の昔、なう母上様。」
母はあと引き取りて逆らはず、
「重忠殿の鷹談義の微に入り細を穿ちしお語らひに、並みゐるお歴々は
皆アッといひつゝ感じ入ったと、漏れ承り候。殊に故殿は大きに御感
あられ給ひて、奥州笹河の公田三十八町を畠山に下され、重忠は才覚
ある者とのお言葉も頂戴なされました由。」
老母は細き目なほ細め、
「オヽオヽ、うれしき事、うれしき事。」
栄子はフトも訝しがり、
「ハテサテ重保殿の御出立、今宵は殊の外艶めいて美しき事よなう。」
袖の口からチラチラと、覗く緋の色美しく、黙せど色香身に添ひて、益荒男振りも
重忠謀叛の段 最上段へ
上りける。
思ひ出でて恋しき時は一人寝の、簾動かす宵風も、アレ主様かうれしやと。男の呉れし下襲、勿体なくも畏くも八幡神の神名の軸とり外し掛けゐたる。白菊姫小さき口にて筆噛み噛み、
「その後お変りもなう。」
と消息の、墨の切れ目も縁切れかと、心もしのに思ひける。フト一陣の風、と見ればハタと落ちぬる下襲。
「アレお大事の重保様が。」
と又取り付けるも落つる衣。
「今度は風もなきに、怪しやな。悪い知らせでなくばよいが。オヽ鶴亀々々。」
抱き締めて下襲、膝を枕に横たへて、
「重保様、早うこうして。」
と玩ぶ。玉章をクルクル巻き、重保さまと書く手元、激しく震へ筆バッタリ。
「アレ何とせう、お着物が。」
汚れはザクと袵の上、切ったが如く筆の跡。
「アヽ鶴亀々々。」
と一間を走り出でにける。
「何騒がさっしゃる白菊殿。」
「アレ伯母上様、ここにおいでなされしか。実は実は。」
と口ごもる、秘したる恋の恥かしさ。
「何の事やら、チト落ちついてな。」
細い項も折れよとばかり首項垂れ、
「私と重保様は、アノアノアノ、末を契りし二人にて。」
「エヽ、知らなんだ、知らなんだ。」
「お許しなされて下さりませ。」
「二人してその裏庭の赤まんまを、朴の葉皿に盛り分けて、遊んでゐたは
つい先頃。」
「お許しなされて下さりませ。」
「それが何ゆゑ泣いたりなんぞ。」
「お別れのその時に、頂戴致せし下の衣、風もないのに幾度も、落ちてしまふ
は不吉な予感。又消息の筆とれば、手元震へて筆落し、汚せし跡のザックリと、
ホレこのやうに刃の傷と、見たは僻目か恐ろしや。重保様に何事もなければ
よいが。」
と下衣に、顔を埋めて泣きゐたる。
「アヽこれは、重保のもの。」
と驚く栄子気を取り直し、
「何を心配いたしおるのじゃ。お祖父様に謹慎解かれ、晴れて出仕の侍所。
祝ひこそすれ涙なぞ見せるは不吉な話じゃないかえ。」
「お許しなされて下されませ。ホヽ、取り越し苦労も恋しき余り。」
「マアマアたんと惚気さっしやれ。」
嫁と姑に移りゆく二人が仲の睦まじさ。
折も折、表に激しく音のして、重保の近習侍満身に刀傷して走り来る。
「お館様、奥方様、重保様お討死、無念やな由比ヶ浜にて騙し討。」
「エヽ重保が。」
栄子驚くその脇で、
「ウーム。」
と白菊気を失へば、
「これしっかりさっしゃれ、気を確かに。」
介抱するも気丈な姑。重忠奥より走り出で、
「ナニ重保が。」
と絶句せり。
「御首級は無念や敵に奪はれ、土民が剥ぎしこの着背長、やっと奪ひて戻り候。
残念無念お館様。」
と脇に抱へる黒糸威、差し出せし後バッタと倒る。重忠ジッと鎧を見、
「違ひない。これこそ重保の着背長。」
と瞑目す。白菊鎧に下襲、フワと重ねて抱きしめ、
「重保様。」
と泣きゐたれば、未の下刻一天俄にかき曇り、雷鳴しばし鳴り止まず。その時鎧の後様、重保の魂魄現れ出ずる。髪乱れ、衣は破れ、血したゝり、細き声して、
「恨めしや父上様、稲毛の叔父に呼び出され謀叛人の詮議とて、由比ヶ浜
へ駆け出して、みればいつしかこの我れが、謀叛人とはなったりける。
騙し討ちに首討たれ、首を討ちしは三浦義村。ウーム、ウームウーム。
もはや叔父御も甥もなし。後で糸引く執権殿、恨めしや母上様。」
と云ひ終はれば消えにける。
「重保殿ッ、重保様ッ。」
と泣く音も高き母と妻。重忠一人腕組みて、
「謀りしな稲毛三郎。稲田の藁でこの国の畠や山を焼かるゝとは、無念や
無念口惜しや。」
母栄子は髪振り乱し、
「どこの世界を探したとても、可愛いゝ孫をその祖父が、討ってよい筈
あらうかやい。鳥や毛物の世界じゃとても、そんな道理はないものを。」
身も世もあらぬその嘆き。
その時表に音のして、
「我等は稲毛三郎重成の手の者なり。我が軍勢毛呂山口まで押出だし、遠巻き
にこの菅谷を囲み候。御一族榛谷殿も我が方に寝反りなされ、畠山は
孤立せり。早々に重忠殿の首、差し出し候へ。」
と使者の大声。人々驚き立ち騒ぐ。
「恨めしや父様」
と白菊の泣き崩れたるその時に、庭より輿一挺運ばれ来る。使者の申すに、
「さて榛谷の白菊殿はお手討ちさるゝか、もしくは又、榛谷方に返さるゝか。
お放しあれば稲毛殿、貰い受くると申さるゝ。返答いかに。」
と強談判。白菊キッと眉上げて、
「稲毛の元に行く程ならば、いっそ舌噛み切って。」
と健気に言へば、重忠は、
「お父上に逆ってよいものか。生き永らへて孝養を。」
と諭しける。白菊やをら滝の涙の顔を上げ、
「ほんにさうでありました。恋しきお方も今はなし、この先生きゃうと
も死なうとも。」
と父に捨てられ今は又、優しき伯父にも捨てられて、萎れて輿に乗り移る。
輿に乗る人送る人、皆サメザメと泣き別る。
折から注進走り出で、庭先に手を仕へ、
「只今乱波の知らせにて、北条・小山・三浦・和田、その他の軍勢
合せて数千、陸続として北上中。先陣は只今戸塚のあたり。」
と申しける。
重忠はやも赤糸威の鎧着て、
「小次郎重秀やある。」
と子を呼び出す。
小次郎重秀走り出で、
「御前に。」
と手を仕へれば、
「軍勢は百騎ばかりを集めおけ。多勢はならぬ、構へてならぬぞ。」
「父上ッ、それではいかな畠山勢にても、討死は必定。」
重忠静かに打ち笑みて、
「オヽ覚悟の前じゃ。」
小次郎は声を上げ、
「なんと、なんと、重保の弔合戦なれば、一兵残らず討って出でん。」
「ならぬ、ならぬ。多勢も無勢も同じ事。執権殿は我が首のみをお望
みじゃ。死に急ぐなよ小次郎重秀。」
何思ひきや重忠は、庭に馳け降り大力にて、石組み・灯篭持ち上げて、手毯の如く抛りたる。
庭に生えたる大木も、抜きては投げ、投げては抜き、砦の如く積み上げたり。
「皆の者砦を築け。じやが皆々誓って討って出るまいぞ。わしは百騎で、
たった百騎で弔合戦。」
といふ所へ、馳け入る女人。見れば白菊髪振り乱し、
「伯父上様、伯母上様、白菊只今戻って候。これなる首は稲毛三郎。
靡くと見せて油断させ、首掻き切って参りしもの。」
と首差し出だし倒れ入る。
「でかしゃった、白菊殿。重保の仇討ちゃった。」
と姑は嫁を労はれば、白菊、
「早速に重保様の着背長に、この首供へ御報告。」
と一間の内に入りける。
重忠は、
「年端もゆかぬ女でさへ、かくなり果つる人の世や。怖はやなう、人の
心は怖はやなう。」
一間の内より、
「ウーム。」
の声。開け見ればこはいかに、白菊喉に刃つっ立て、
「いかに計略とはいへども、色を使ひしこの身の罪、重保様にお詫び
の自害。あの世で添ひとうござりまする。」
重忠は涙して、
「天晴じゃ。この恋成就せり。」
と耳元で聞かせければ、白菊ニッコと打ち笑みて、やがてはかなく落ち入れる。
栄子は白菊の刃もぎ取り、
「わらはも死にとうござりまする。」
と首に当つれば、重忠刀を奪ひ取り、
「待て、早まるな。」
と抱き止むる。
「わらはは父に裏切られ、我が子に死なれ今は又、討死覚悟のお前様。
この先どうして生きられませうや。」
「そもじは生きよ、生きてくれ。執権殿はこの重忠をお憎みあれども、
義時殿はさにあらず、と風の便りに聞きおれば。殊にそもじは尼御台・
義時殿とは同じ腹、よも疎略にはなさるまい。生き残りて畠山を守って
くれい。母上様もそもじが頼りじや。自害はならぬ。ならぬぞよ。」
ワッと泣き伏す妻なりける。
奥より三崎の前、ヨロヨロと出で来り、
「オヽ重忠殿、御出陣とな。目出度い目出度い。治承四年の鎌倉殿お旗上げ
以来、先陣勤むる畠山。映えある源氏の白旗を、お許しあってその上に、
小紋の藍皮つけさせて、畠山の旗印とし給ふ晴がましさ。今度も
その旗靡かせて、先陣を仕り、畠山の名を上げてくりやれよ重忠殿。」
息子は老母の手を取りて、上座に据へ、
「母上様、有難きお言葉。重忠うれしう存じまする。」
と手を仕へる。
「門出に我が唄一つ進呈致さうよ。我が夫様も好まれし秩父甚句を二つ三つ。
それ皆の者手拍子、手拍子。」
沖の汐風たよりを頼む
三浦三崎のあの浜へ
栄子うろたへ、
「姑上様、それは三崎甚句。」
重忠妻を遮りて、
「捨ておけ捨ておけ。三浦も我が遠き故里なれば懐しし。」
手拍子打つ手も楽しげなり。栄子は、
「我が重保、三浦平六義村に討たれしと聞くからは、わらはは、わらはは
聞きとうないッ、聞きとうないッ。」
手で耳塞ぎ打ち伏せり。
三崎城ヶ島は見事な島よ
根から生えたか浮島か
「哀しやな、物の文目も分からぬお方。」
栄子の嘆き聞かばこそ、重忠カラカラ打ち笑ひ、
「何を言ふ、呆けし母御で救はれたわ。今度は逆縁覚悟の我が出陣。
畠山の滅亡を正気で見させる親不孝、免れ得たは我が身の倖。
母上さま、ほんに目出度いな、目出度いな。」
ヒラリ馬上の人となり、重忠家の旗印、高く上げさせ鬨の声。
「イザやイザ、死出の旅路の先陣を、勤めてみせうこの重忠。」
母は無心に唱ひける、
舟は来る来る城ヶ島沖に
あれは大漁の三崎舟
(幕)
あとがき
この作品は、平成七年度「文楽なにわ賞」の佳作に入賞したものですが、古典芸能の脚本を勉強し始めたばかりの時の応募で、大阪国立劇場の表彰式の折、撰者の先生からの講評では「ストーリーが面白く、ドラマ作りは上手。人形芝居ならではの場面もあり評価したい。しかし登場人物が多く、どの人物に焦点をあてているのか分かりにくいのと、場面転換が早く多いので舞台にするには困難である。」と言われました。
前半のうれしさを後半が打ち消すという「めでたさも中くらい」のオラが作品であります。この中に痴呆老人を挿入しましたが、これは何か社会的主張があってしたことではありません。
歴史書を読むと、よく「義」と言い「名」と言って男達(夫や息子)が討死しますが、後に残された女達を思う時、ふと「自分ならいっそ呆けていたいものだ」と思いました。痴呆はデメリットばかりではなく、こんな肯定の仕方もあっていいのでは、と思いました。勿論厳しい介護の現状を見る時、こんな話は通用しません。しかしこれは物語、私の「夢のお話」なのであります。
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